「名づけ」の精神史 by 市村弘正が面白い
分裂病者の世界に、「名づけ」の経験の変容に、路地の文化史に、「乏しき時代」現代の精神のありかを見とる。多領域の論者に深く静かな衝撃を与えつづける思索。解説=吉増剛造 曖昧で大きな問題や得体の知れない怪物についての話題があって、名前づけについて色々考えを巡らせてたときに見つけたサイトで高校教師の人が教材として公開してたのを読んでみたら面白かったです、という話でしたtetsuya-k.icon 吉増剛造が解説付けてる!すごそう
「世界はいわば名前を網目組織として現れる」ことになる。人間が事物を名付けることによって、「『世界』は、人間にとっての世界」になり、「『生きられる』空間が創造された」ことになる。それが人間の「世界に対する関与の在り方」である。
この辺の話題は、海辺のカフカで登場していたような、していなかったような。平安時代は「闇」が多かった的な話題 子どもも定型としてある既存の名前を、遊びの中で自分の感覚や仲間との物事の共有のために即興的に名前を付けていく。その名前には、「子供とその物との出来事を含んだ生きた関係」が示されている。もともと名付けるとはそういうことである。 このことから、「物とは本来多様にして変化に満ちた相貌を持つものであり、名前の付け換えが可能なのは、その交渉の中でものがその事態に特有の相貌を現す」からである。つまり、「名前の変更とは物それ自体」の変貌を意味する」のである。だから、子どもが名付ける機会を断ち切られることは、子どもにとって世界が死んだことになる。
千と千尋の神隠しでは名前を奪うことで千尋自体を変貌させたということなのかな 日常的な世界と、妖怪的世界では名前が違うだけなのかも
つまり、「名付けることは『所有する』ことである」。人間世界を超えた神聖なものは恐れ多くて名前を付けないということは、名前を付けるということは、人間世界の中に取り込むことになる。名付けるとはそれぐらい強い威力を持っている。
名前をつけることで所有する概念はなにかで見かけた気がする
在位中の天皇を「今上天皇」と表現するのもなにか近いような気がする
名付けというよりは「相手をどう呼ぶか」という問題かもしれない