運命と自由意志
「(アルジュナに告げられたように)各々によって行われるよう定められている、ある仕事があり、私たちがどれほどそれを行いたくないと思っても、(どれほど)それを行うのを拒んでも、私たちが結局それを行うことになるなら、自由意志は存在するのですか」。 私たちによって行われることになっている仕事が、我々によって行われるであろうことは、本当です。
しかし、私たち自身を体と、仕事を行うものと同一視しないことによって、
仕事の喜びや苦しさ、好ましい、もしくは、好ましくない結果を免れていることは、私たちに開かれています。
あなたがあなたの本質を悟り、どんな仕事でも行うのはあなたではないことを知るなら、
運命や過去のカルマや神の計画など、あなたがどのようにそれを呼ぶのであれ、 それに従って体が従事する仕事が何であっても、あなたはその結果に影響されないでしょう。
あなたはいつも自由であり、その自由に限界はありません。 若干、okdprojectproject okd.iconによる注釈を以下に記しておく。あくまでも、個人的な解釈 『どんな仕事でも行うのはあなたではないこと』
『私たち自身を体と、仕事を行うものと同一視しないことによって』
ノンデュアリティ的に理解しなければいけないのは
「仕事をしているのは肉体や自我であって真我ではない」 何の行為も行わない。なんの意志も持たない、なんの価値観も、好悪の感情もない
常に「現実」からワンクッショをおいて、真我の立場から(自我を通して)物事を見ている
だが、そのうちに、真我は自分を自我と思い込むようになった
映画を見てて、一人称の主人公に完全に感情移入したようなもの
真我→自我→「現実」世界、という経路で真我は「現実」を見ているが、そのうちに
真我が、自分が真我であることを忘却して、己のアイデンティティを自我においてしまっているのが我々一般人の現状 常に、真我にアイデンティティをおいておかねばならない
我々一般人は思考(自我)にアイデンティティをおいており、真我にアイデンティティをおいていない
上記の「現実」は自我が現実と勘違いした夢であって実際は真我以外は何も存在しないというのがノンデュアリティの立場
当然、肉体や心も宇宙も夢であって存在しない……という立場をとる 夢≒無知≒無明
夢が無知というよりは「夢を夢と気づかない」のが無知というニュアンス
真我は意志も義務感も罪も正義も持たず、なんの属性を持っていない
PCに例えれば真我SelfはCPU、宇宙は仮想OS(もしくは、仮想OS上のアプリケーション)
自我はアプリケーションというよりは、アプリケーション上に展開されているゲームの登場人物の一人
世界も自我と同じくアプリケーション上に展開されている。
アプリケーションは世界ではない、あくまでアプリケーション上のオブジェクト
仮想OS上からは、自我も世界も見かけ上はオブジェクトの一つでさほど違いはない。
ただ世界を見る目は、自我というフィルターを通さねばならない約束なのがこのゲームの特徴
自我が死んだ瞬間、ゲームは落ちる
昔ハードモデムがソフトモデムになったみたくPCのハード自体がソフト(バーチャル)
EFI(BIOS)は?
自我は自分の意志で自ら行為していると勘違いしているが、 実際の行為は、自我と違うレイヤーから行われている。
我々が行うゲームはCPUとゲーム上の主人公(自我)の間にプレーヤー(我々)が入るが、上記の自我は、コントロールするプレーヤーはいない。放置系シミュレーションゲーム
ゲーム上の設定では、自我の意志で、ゲームの行方が進んでいるようにみなされる
自我(ゲーム上の主人公)からは、行為に干渉できない。
ストッページオーダー Stoppage Orderのみ自我はかろうじて出せる時もあるという説もある byリベット
自我が後付けで解釈している…というよりは、後付けで解釈する認識構造機構それ自体を自我というニュアンスも 実際は、自我も存在しない。
「ものごとがあり、それを自我が解釈している」というストーリー構造の一部として理解すること(自我も世界もゲーム上の一つのオブジェクトというよりは、自我の中で展開される自我の夢?)
世界の中に自我が存在するのではなく自我の中に世界が存在する。←人が世界を夢見ることはあっても、世界が人を夢見ることはない
よって「世界>自我」ではなく、「自我>世界」
母親のお腹からあなたは生まれてきた?
→母親の世界のなかでは、たしかに母親からあなたは生まれて来たかもしれない。
だが、あなたの世界の内ではあなたは母親のおなかから生まれていない。
母親のお腹から生まれてきたという、夢を見ているだけ。
母親から生まれたという伝聞はあるかもしれんが、写真、ビデオの証拠もあなたの脳内にしかない
写真、ビデオの現物もあなたの脳内に存在し、現物を一緒に見てくれる友人もあなたの脳内にしかない←水槽の脳 あなたの父親も母親も宇宙もすべてあなたの脳内以外には存在しない。
端的に言えばあなたが母親を想像(創造)した。たとえ話ではなく、正真正銘リアルなマジ話
ある意味 子供が親を生む、そして、世界も生む(創造)、それが、『現実』
前世の記憶は自我が作り出した夢、現世とのつじつま合わせによって作られる
雲から降りてきたという子供の証言も同様
「ものごとがあり、それを自我(ゲームの主人公)が解釈(主体ー客体)している」というフィクション(建付け)
物語自体がフィクションなんで当然、主人公たる自我の存在自体もフィクション(主体も客体も存在しない)
よって、自我も世界も存在していない
物語上の「主体ー客体(対象)の世界」は真我のレイヤー上に(or下に)展開されている
さらに、その上に(or下に)自我によって(「自我ー対象」が存在するところの)世界が展開されている
真我を一つ下のレイヤー(下界である現実に近いレイヤー)の自我の立場から見てなんらかの属性を持たすならば観照者(見る者)というふうに言えなくもない。 真我にとって「現実」は真我Selfのみ、我々が俗に言うところの「現実」は真我の見ている夢に過ぎない
真我にとって宇宙は真我の中にある(真我の見ている夢)
状況により、「宇宙は存在しない」とか、「宇宙は真我の中にある」「宇宙は真我の見ている夢(夢なので現実には存在しない)」等々に表現される
進化により人間が誕生したというのは、いくら何でも無理な話
なんちゃら定数←マルチバース理論でごり押しクリア?
ボルツマン脳 ←project okd.icon個人的にもっともありうると思う説(もし宇宙が現実に存在するなら) 宇宙は存在しても、生物自然発生は無理ゲー
真我=Self(大文字)
自我=self
真我は「主体ー客体(対象)」=「私ー対象物(宇宙、世界、モノ)」では当然ない。
主体でもなく客体でもなくその中間でもなくその二つを超えたものでもない、そもそも別のレイヤー
目に見えない光が花に遮られて色になるように、
真我は色の中に反映されるが(色を真我として自我に解釈されがち)、色ではない←龍樹の四重否定 色を作るのはレンダリングエンジンや様々なライブラリ
真我は0~1(or重ね合わせ)でエンジンを駆動するのみ。
色等の属性は、真我には直接には由来しない(駆動のみ)、
属性は世界に属する(アプリケーション上やOS上)
真我が「I am」(私が…)の感覚を抱いた瞬間に宇宙が創造されたらしい←byマハラジ
それまでは、真我しか存在しなかった
主体ー客体(対象)の分離は幻
日本語で主語を略するのは、主体ー客体の分離感覚が希薄なため
ノンデュアリティーを実践するうえで重要な概念が観照、観照者 観照が理解できないとどうしようもない
⇧なんとかscrapbubbleっていうscriptを入れたいけど判らない。それが入れれたら、こんなリストなんか要らないのだが
project okd.icon
自分のproject内の文章に若干加筆して転載しました