社会構成主義の生成的理論
from みんなと同じようにすることが無意味に感じる
『あなたへの社会構成主義』 pp.173–175
私たちの行動のパターンは、常に言説のモードと絡み合っています。例えば、「私はあなたのことを気にかけている」 というセリフは、後に続く行為の可能性を暗示します——例えば「連絡をとりつづける」「援助する」はありうる行為ですが、「避ける」「敵意のこもった言葉を投げつける」はそうではありません。したがって、私たちが行為のパターンを変えたいと考えている場合、言説のモードを変えること——できごとの記述、説明、解釈の仕方を変えること——は有効な手段の一つとなります。これは、すでに私たちが日々の生活の中で実践していることです。私たちはうわさ話や皮肉、あざけりなどを通して、仲間との関係から政治まで、さまざまな対象のイメージを違うものにし、その結果、 人々の行為を変化させています。しかし、社会構成主義は、さらに困難かつ大胆なことにチャレンジします。日々の実践は、どうしても、一般に受け入れられる現実の範囲内にとどまりがちです。私たちは、自分にとって身近な言語ばかりを用いるため、生じる変化は極めて小さいものに限られてしまいます。より大きな変化をもたらすためには、今ある慣習や思いこみを捨ててしまわなければならないのです。
このことを、第1章で登場した二分法という概念を用いて説明してみましょう。すでに述べたように、私たちは二分法の構造によって言葉の意味を理解しています。そのため、私たちはともすると、上か下か、内か外か、賢いか愚かか、 というように両極端に陥ってしまいがちです。こうした伝統的な二分法を社会の変革のために用い、世界や人々について記述し直そうとしたとしても、その変化は表面的なものにとどまるでしょう。なぜなら、否定された方はたとえいったん退いたように見えても、舞台の袖に控えていて、再び登場する機会を待ち構えているからです。例えば、「善」を代表するとされている人々(大統領、裁判官、警察)が実は「悪」である(腐敗している、偏見をもっている、不正だ) ということ、あるいはその逆を示そうとしても、私たちはまだ、善か悪かという二分法のシステムの中でものごとを判断しています。私たちがいくら「彼らは悪い」と主張したとしても、結局は「善い – 悪い」という正反対のカテゴリーを対立させるような語りのシステムを支持していることになり、逆の主張(「彼らは善い」という主張)にも登場するチャンスを与えてしまっているのです。フェミニスト批評家ロード (Andre Lorde) が述べているように、「主人の道具を用いて主人の家を壊すことはできない」のです。もっとラディカルな方法は、二分法そのものに疑いの目を向け、それ以外の語り方を生み出すことです。では、善悪の両極端に陥ることなく他者や自己について話すとは、いったいどういうことでしょうか。
二分法を打ち破ることによって、確かに行為の幅は広がります。しかし、まだ「新しい家」を完成させるにはいたっていません。ここで、社会構成主義にもとづく新たな出発、ものごとの新たな捉え方、新しいメタファーやナラティヴ、 新たな記述や説明が、必要となります。私たちが求めているのは、「生成的理論」——慣習的な理解のあり方に挑み、 新たな意味や行為の世界を開いてくれるような、世界についての説明——なのです[1]。
例えば、フロイトの理論は非常に生成的なものでした。彼は、いくつかの(略)