文脈が書き手にとってつながっていないことは存在するだろうか
たぶん長くなるから最初から切り出す
文脈が書き手にとってつながっていないことは存在するだろうか。terang.icon
例えば日付がタイトルの日記ページに書くということは「日付」という文脈と(も)繋がっている。
文脈らしきトピックと関係ない/繋がっていないことを、書こう/書いているということさえも、「そのトピックと関係ない」という繋がりがある。
あるいは、「ここのところ真面目で難しめっぽいことを書いていた」と自分を意味づけ、中和のためにくだらないことを書く、という文脈もあるかもしれない。
別の言い方をすると、空リプでない記述は存在しない、すべての記述は何かしらへの空リプである
書き手が無自覚である場合もあるし自覚している場合もある。読み手や切り出し主に、偶然なんらかの文脈がそのとき光って見えただけで、他の可能性は無限にある。
——という思考実験。
上の前提で、自分のケース。
このページは、書き手であるterang.iconではない他のユーザーさんによって日記から切り出してもらい、上部の注とのりしろを、切り出してもらった後にterang.iconが自分で追記した。
余談だけど、のりしろという表記もこのproject独特の語という認識があり、その文脈とも繋げようとした自覚もある。
追記にあたって、いくつかの選択が自分に生じた。
1. 文脈を追記するかしないかという選択。追記するとして、どの文脈を追記するかという選択。
追記しない場合、おそらく、ある本のメモだと多くの人には映るのではないかと思われる。
そして書き手であるterang.iconは、読み手にそう映っても構わないと考え、この日の日記ページには置いていた。
とはいえ切り出してもらえたため、文脈——「のりしろ」という語をあえて誤用の恐れも考慮に入れつつ使ってみたが——を明記しておくべきかを検討した。
この本のメモ内容はterang.iconの中では(のりしろで書いたことだけでなく)どの文脈とも繋がっているし、表面上はどの文脈とも繋がっていない(単なる本のメモだから)とも言える。
書き手にとっての代表的な文脈を1つ明記してしまうことで、読み手の他の文脈と繋がってもらう可能性を下げてしまう。
それを書き手としてはもったいないと感じる
しかし、書き手でないユーザーによって切り出されてしまったのだから、それはもうしょうがない。
誰もが切り出し操作可能な場所に書いている時点で切り出されない保障はない。なんだったら著者の手を離れて共有財産になっているという考えもある。
もちろん、元の日記ページに戻すという操作をterang.iconが行うこともできた(それはそれで異様だが)。
むしろ切り出されは原則言祝ぎたい。
2. 語の定義を注記するかしないかの選択。
「政治」という語をどのようにあのメモで定義していたか。
この語と意味を、どのように解釈するか(シーニュ)次第で、読まれ方も大きく異なるだろう。 「日記」という文脈があったから、「自分のため」という言い訳(演技)も残されていた。
シャノンモデルよろしくすべてを「正しく」送信機から受信機へと通信することを想定しない「日記」という文脈があったから、本のメモをとる体裁を装って書くことができた。 正確に本の内容を誰かに伝えたいならば、その本のテキストすべてを転載せねばならず、それは言わずもがな著作権者に無断で行うことはできない。
とはいえ切り出されたため、単独ページとして読むならば「政治」の語の定義が必要だろうか?(あるいは、1の文脈を記載した場合、定義は書いておいた方が好ましいだろうか?)を検討した。
誰かがもし全く別の文脈でこのメモを読み(そして「政治」をterang.iconが全く想定しない風に解釈して)、面白い会話が始まったり新たな意味が生成される可能性(natality(アーレント)の可能性)を下げてしまわないだろうか。 想定外はあるとはいえ、ありそうな誤読によって、不要なトラブルを助長する可能性はないだろうか。
でも幸い大きなトラブルにならず、他ユーザーとお話や雑談をすることができてよかった(決してわざとあんな書き方をしたわけではないですが)。
読み手にとって意味が繋がってエウレカする気持ちい瞬間を奪いはしないだろうか
大袈裟に書くならば、文脈を提示しない自由を、切り出しによって奪われてしまった、とも言える。
なあんだ、terang.iconの発するすべてに意地悪なor面白い(orその他の)文脈があって、面倒だからもう読まんとこ。とは思われてしまうかもしれない。
すべてにメタな意味があるといえばそうだし、ないと言ってもそう。自分で自覚していなかった(過去形)のこともあるし、後から自覚してもそれが真実かは自分を含め誰も検証できない。
もちろん「自由がいい」とか「切り出さないで欲しかった」という話ではない。制約が創造性を生む。 他者から、自信が意図しないタイミングで切り出してもらう制約。
記憶が微かな、とても昔の自分も「他者」の範疇だろうが、しかしタイミングは予期できない。
ところでこの場合、緩やかにでもあった文脈の切り離しはどのように作用するのだろう?
文脈がわからない(わかりづらい)ということは、その文脈を把握せずとも読み始められるということ。
すべてが入口で、すべてが出口。
カリキュラムにおける、(必修科目ではない)選択科目。 一方で、相対的に多い文脈(例えばこのページのここまでの行も)は、読む順序 order を読み手に示す。
手前を読まなければ、続く次の意味が理解できないような構造。
経済学Iを履修しないと経済学IIが理解できない。小学算数を(暗記ではなく)理解していないと、中学で変数の概念を理解できない。そういう構造。
そしてさらには——Twitter微分論の著者によれば——、なぜ人を殺してはいけないのかという問いも射程に入る。
(Twitter微分論では2010年前後のTwitter文化をうっすら指しており、今(2026年)のXのようなものとして読むとおそらく訳がわからなくなると思われるので注意)
文脈や語の定義を著者が明示し過ぎてしまい、それが確定したかのように読まれることで、そうでない可能性の幅を狭めてしまう。これがこの文脈でいうところの「創造性を減じる制約」となりかねない。
このページでの「文脈」とは少しズレるが、この創造性を減じる制約を、「文脈提示の暴力」と仮に呼ぶなら、「分類の暴力」もあると思っている。
この分類論は、ボードゲームを例としているが(文脈はボードゲームだが)、あらゆる事象(文脈)にも当てはまると思っている。
そろそろ結論めいたことを書かないと。
「その切り出しが機械的かどうか」が何かを示唆するかもしれない。
つまり書き手に、驚きや意外性をもたらすような切り出しかどうかという視点。
長い期間、機械的(に見える)切り出しが、多くは同一人物によって行われ続けると、その驚きや意外性は逓減していって、いつの日か「またかよ…」とネガティブな気持ちになるかもしれない。
一方で、「機械的に切り出したらどうなるのか、と試したくなった」というタイミングは、誰も想定できない。この場合は、驚きや意外性を書き手も含む多くの人にもたらすと思う。自分にとっては「出生」の一つ。
ここまでのテキストを(単純に長いから、と)AIに要約させた文がもしあったとして、それを読んでも、おそらく私の書きたかった意味はそこに表出しないのではなかろうか(どうだろうね)。
AIは究極には他者ではない(まあ客我の一種ではあるかもしれない)。
Summer498.icon
緩やかな文脈の繋がりを心のなかにとどめて抽象的な一般論に昇華して柔らかな言葉遣いで届けられると読み手が適当に都合の良い文脈を補って解釈をする。
これにより面白い方向に話が発展したり、書き手が含蓄のある発言をしたと読み手に勝手に思ってもらえたり、良いことが多い。
書き手が文脈を後から限定した時に始めて「そういう話だったのか」と驚くことがある。
その時に、そういう話だと思わずに読んでいても同意できたのだから、かなり一般的に成立するとても良い話だと思う。
「政治」なんて国際政治から家庭内政治までスケール感は様々に成立するが、どのスケール感で読んでいても成立するようなことが書かれていたら、読んだ時に書き手外とした文脈を読み手が正しく想定できていなかったとしても、読み手にとっては気にならなさそうだ。