自由であることは幸せか?
これは、ジョージオーウェル著「1984」に登場するウィンストンという男性の考えです。何も知らず、何も考えず、自分に見えている範囲のなかで幸せに生きていければそれで十分ではないか?外の世界や沢山の選択肢を知ってしまい、自分で決断して自分で責任を負って生きていくほうがよっぽど苦しいのではないか?あなたはどう思いますか。 「知る」「学ぶ」ということは、本当に必要で、幸せなことでしょうか。飛行機を発明したのが誰か知ろうが知るまいが、あなたの生活には関係ないでしょう。また、遠い国で起きている飢餓について知ってしまったら、あなたは自分が今日食べ物を残したことに罪悪感を感じ、「知らなきゃよかった」と思うかもしれません。
ここで、知る・学ぶということはどういうことか考えてみたいと思います。
近代言語学の父ソシュールは、次のように述べました。「もし語というものが予め与えられた概念を表象するものであるならば、ある国語に存在する単語は、別の国語のうちに、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずである。しかし現実はそうではない。」つまり、この世の中に先に物が存在し、そこに人間が名前をつけたのではなく、人間が認識した物に名前をつけることで、初めてそれは存在するのだという考え方です(ピンと来なかった方は、構造言語学でぜひ調べてみてください。) 例えば、日本では蛾と蝶を別物として認識しているが、フランス語ではどちらも「パピヨン」と呼ぶ、というのは有名な例です。これは、日本語では「蛾」と「蝶」を呼び分けているので2つは違うものとして認識するが、フランスでは両者を区別していないということです。もっと言うと、“フランス語では蝶と蛾をまとめてパピヨンと呼ぶ”というのではなく、蝶や蛾とパピヨンは全く別の概念である、ということです。
もう一つ例を上げるとするなら、虹の色の話があると思います。虹の色は日本では7色として認識されていますが、アメリカでは6色、アフリカのアル部族では8色と言われています。7色だと思って虹を見ると7色に見えるでしょうが、「黄色と緑の間に黄緑があるから8色だよ」と言われれば、なるほど確かに8色あることに気づくでしょう。
何が言いたいかというと、「言語は世界の切り口である」ということです。言葉やモノの見方をたくさん知ることで、世界をより広く、より細かく把握できるようになります。知るということは、そういう意味で、自分の見る世界を豊かにしてくれるのではないかと思います。 ここまで、知るということはどういうことか考えてみましたが、ではそもそも、どうしてわざわざ色んなことを知って、色んなことが見えるようにならなきゃいけないんでしょうか。
山口周さんは、著書でこんなことを仰っていました。「教養によって、「常識を相対化する」ことができ、目の前の慣れ親しんだ現実から「課題」を汲み取ることができる。「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼を与えてくれるのが、教養である。」 また、YouTuberカジサックさんの奥さんのヨメサックさんは逆に、動画の中で、「夫婦がうまくいく秘訣は、他の人のうちの旦那と自分の旦那を比較しないこと」と言っていました。
つまり、様々なことを知って、それらを相対的に比較することで、そこから課題(不満)が生まれるということだと思います。こうした不満は、現状を変えようとする際に大きな原動力にすることができます。 ではここで、これに対して更に疑問符を打ってみましょう。ここまでを踏まえてもやはり思うのは、「原動力とかいらないから、無思考で周りに従って生きたほうが楽だし幸せなのでは?」ということです。
「自由からの逃走」を書いたフロムは、次のように主張しました。「自由であることには耐え難い孤独と痛烈な責任を伴う。刺すような孤独と責任の重さに多くの人は疲れ果て、高価な代償を払って手に入れた「自由」を投げ捨ててナチズムの全体主義に傾斜することを選んだ。」 彼は同時に、こうも主張しました。「人間の理想である、個人の成長、幸福を実現するために、自分を分離するのではなく、自分自身でものを考えたり、感じたり、話したりすることが重要だ。「自分自身であること」について勇気と強さを持ち、自我を徹底的に肯定することだ。」 つまり自由とは、「何をするか」や「何をしないか」という自分の行動を主体的に決定することであると言えるでしょう。これは、昨今よく聞く「アート思考」にも通ずる態度のことを言っているように感じます。 では、ここまでを踏まえて問いかけてみましょう。わたしは「自由」になりたいか?
彼女は、生き方には2通りあるといいます。
①現行のシステムを所与のものとして、その中でいかにうまくやるかについて、思考も行動も集中させる
②現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体をよきものに変えていくことに、思考も行動も集中させる
ハンナさんは、②の生き方をすべきだと言っているわけです。
こうした生き方をするためには、社会のあらゆることを、自分には関係ないことではなく「自分事」として捉える必要があります。 では、なぜそこまでしなければならないのでしょうか。そんな生き方、みんながみんなする必要があるんでしょうか。
これに対してわたしは、「自由とは自分のためではなく、「未来の誰かのため」のもの」なのではないか?と考えました。
ここで、企業やブランドについて考えてみましょう。企業やブランドは、「人々の生活をよりよくする」ために生まれ、成長するものです。(逆に、そういった軸のない会社は長期的には成長できないともよく言われますね。)また、上手くいく経営者は「社会軸」を持っているともよく言われます。 「誰かのために」という利他的な精神が、人を自由へと向かわせる。誰かのために頑張れる人は、「自由」のつらさや重さに潰れないんじゃないだろうか。 本当に社会や誰かのために頑張っている人は、それを利他的だとか自己犠牲的だとか思っていないでしょう。彼らはただ、自由を行使し、強いWILLを持って生きています。 そういった生き方ができるように、教養を高め、自分の世界を広げておくのは大切なのかもしれません。
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21/12/18 アドベントカレンダー記事
ジョージオーウェル著「1984」を読んだことはありますか?今回は、それを読んで考えた事を言語化しました。読んだことのない方にも問題なく伝わるように書いたつもりですが、本の内容が気になる方はぜひお手にとって見てください。 色々な人の意見も聞いてみたいので、ぜひ気軽にわたし(nanaka.iconnanaka)まで。(コメントも歓迎です) 急いでスマホで書いた記事なので、伝わりにくい部分や誤字脱字などあるかも知れません。また修正するかもです😂
kitsune.icon
行動経済学でもよくいわれることですが、人間の認知リソースには有限だから選択肢が増えれば増えるほどデフォルトの選択肢を選びやすくなるらしいです。不確実な時代になれば権威や力強く断言してくれる為政者に従いたいものなのかもしれないです。
nanaka.icon
自分で判断するとか自分で考えるって、結構めんどくさいですもんね。そこで一歩踏みとどまって自分で考えられるかどうかは、問題意識やリテラシーの差に寄りそうですね。
tokyoyoshida.icon
「カラマーゾフの兄弟」の大審問官という節にも自由は必要か?という問答があった記憶があります。今思い返すとこの小説はこういう投げかけが山のようにあり、そして結論は一つも書いてなかった記憶があります。