メタ認知と言語化の限界
思ったことを言葉によって表現することで、言葉の持つ伝達性等の恩恵を受けているが、
ディープラーニングによる画像認識を騙す研究というのがある。 → 敵対的サンプル
微小な変化を加えて誤差を作る
画像の一部に変化させることで、全体として認識されなくする
人より手前に窓の外の景色があるなど
堅牢性を高めると全体の認識精度が下がったり計算コストが増加したりする
つまり、「限られた認知能力で、一般的なケースを学修した結果、例外的な事象に対処できなくなること。」
「行き過ぎた一般化」
「レッテル貼り」なども。
「複雑」な事象に対して、短絡的な「理由付け」を求めてしまう。
言語化も、言葉という枠組みに押し込む行為なので、近い脆弱性がある。
例
メタ認知自体がある程度訓練が必要なのと、
そもそも認知キャパシティが大きくないとできないことなので、
優秀な人=メタ認知を利用して、優秀でない人が
「周りから見て」「優秀な人」に見える振りをすることは難しい。
(周りから見た視点で行動できている時点で既にメタ認知を持っている→この定義で言う優秀なので)
ただし、逆はできる。
つまり、
客観的にみた他己評価と自己評価について、ズレたことを言うことで、
メタ視点を持っていない→無能な奴と思わせる
本来、無能かどうかを判断するのに、色々な観点から判断されるべきところを、
メタ認知でスクリーニングしてしまったせいで簡単に騙すことができる。
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好んで無能だと思われたい人がいるのか?みたいな話もあって、
(その考え自体も先入観として利用できるんだけど)
例えば、心理的安全性の低い組織から離れる時に無能のフリをすると角が立たなかったりします。。
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ここから言えることとしては2点
認知キャパシティを高く持とう
認知の外に対しての振る舞い方に気をつけよう
判断の解像度をあげていこうという話。もちろんそのために言語化や決断経験やインプットなど、色々な手段がある。 大事なのが2つ目で、
自分の認知の外にある事象を無理やり認知の範囲で解釈してしまおうとする時に、歪みが生じやすいのかなと思う。
(解釈というのは多かれ少なかれ発生するけど、特に無理した時)
その時に、自己認識の方を正として世界を歪ませてしまわずに、自己認識を修正できるタイプでありたいと思う。
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一応予防線を張ると、
言語化を好んでいるからこそメタ認知として言語化を疑うし、
メタ認知をしているからこそメタ認知を疑う、みたいな感じ。
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あともう一点補足すると、
他人の目を気にしろ、っていうのとメタ認知っていうのも別ものだと思う。 「他人の目を気にすること」と、「他人の目を気にした振る舞いをすること」もまた別で、
そこに認知リソースを割くのかと言う話もあるし。。