鱗はまた生えてくる
「目から鱗が落ちる」とは、「目が開かれる」といった言葉と近いだろうが、しかし、はがれ落ちた鱗もまた生えてくるのである。即座に再生というわけにはいかないが、それでも時間が経てば再生する(少なくとも、そういう可能性がある)。
なぜ鱗が再生されるのかと言えば、それが身を守るために必要だからである。別に鱗だって適当に生えているわけではない。ちゃんと役割があるのだ。
人の目に生える鱗も同様で、それが一時的にはがれ落ちたとしても、それが身を守る機能を担っていたのならば、やはり時間が経てば再生される。つまり、その人がすでに持っていて、「目から鱗が落ちる」と言いたくなるような新しい感覚の獲得と共に捨て去られたはずの古き感覚も、それが当人の身を守るために必要であれば、やっぱり時間と共に再獲得される。
もちろん、ここでいう「身」とは肉体的なものよりも、ずっと精神的なもの──その人が持つ自分自身観&世界観──に近しい。
たとえば、ある価値観があり、その価値観がその人のアイデンティファイを支えているならば、その価値観の鱗が落ちたとしても、やっぱりそれは再生される。それが必要だからだ。
だから、他者の価値観を強制的に捨てさせようとしてはいけない、という教訓が出てくる。
だから人は簡単には変われないし、それは安全装置でもある。
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勝手に落ちるのではなく「自分の意志で外す」というメタファーで遊んでみる
よく目から鱗を "外します"
そもそも鱗を捨てる気はない
が、いったん手放してみるのもアリかな、ということで手放してみる
手放したまま、というケースは少なくて、近いうちにまた付け直す
鱗が "落ちる" 経験はあまりない(気がする)
素直じゃないからだろうか
あるいは自覚していないだけか
鱗が落ちるのは、それに気づいていないときだ思いますissac.icon
「鱗が落ちる」の意味
「へぇと思うこと」くらいに捉えていたが、違うかもしれないsta.icon
アナニアというキリスト教徒がパウロのために祈ると、目から鱗のようなものが落ちて視力が回復する。こうした経験を経てパウロはキリスト教に回心。「何かをきっかけに、急に物事がわかるようになる」などを意味する「目から鱗」という言葉は、このパウロのエピソードを由来としているのだ。
パウロの逸話(新約聖書の使徒行伝)
パウロは熱心なユダヤ教の伝統のもとにあった。立法を軽視するキリスト教徒を許せず、迫害に乗り出した
しかしダマスコという地に来た時に、天からの光に巡り照らされ、地に倒れる。
そしてイエスの「なぜわたしを迫害するのか」という声を聞く
地面から立ち上がったが、「目は開いていても何も見えなかった」(使徒行伝9.8)
どんな鱗が落ちたのか探したさありますsta.icon
本文だと
そこでアナニヤは出かけていって、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり精霊に満たされるためです。」
するとただちに、サウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマ(洗礼)を受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。(使徒行伝9.17~20)
「目が開いていても何も見えない」状態→何らかの啓示・啓蒙を受ける→「うろこのようなものが落ちる」→再び目が見えるようになる
misc
パラダイムシフト
鱗はぽろっと落ちる?
自分の意志関係なく、ぼろっと
あるいは誰か(の何らかの概念)によって無理やり剥がされる
「鱗」とは
自分の知覚フィルター
蛇の脱皮を想像する
「うろこのようなもの」
これがたとえば「目の濁りが晴れた」と書かれていたとしたら、今頃「(目から鱗が落ちるではなく)目の濁りが晴れる」みたいな表現が使われていたのかもしれない
issac.icon自分の意志で鱗を落とすにはどうしたらいいんだろう?
鱗を落とす=自分の知覚フィルターを揺るがす(シェイク?)
あえて既定の語の意味からから半歩出て遊ぶ
『勉強の哲学』で書かれていた?
リフレーミング