負荷の高い行為で知的作用を進める時、なぜ違和感が関係するのか?
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いくつかの多人数プロジェクトでは「書き込むことの心理的ハードルを下げるために雑談ページを作る」「日記のページを作る」などが行われている。
一方でここではそれが行われていないので、当初は書き込むことに対してのハードルの高さを感じた。
はっきりいって、そのような行為の負荷は高い。それに比べると、inboxを作れば楽に書き込める。しかし、その楽さは、違和感駆動を阻害する。 こうした違和感が、知的作用を進めるのだ、という仮説を持って本プロジェクトを進めていきたい。
タイトルが固有名詞になっているページを先に作るのではなく、あくまで豆論文を書き、その補佐としてページに内に含まれるキーワードをリンクにする形で進めていく。
nishio.icon「ページタイトルを先に決めてから書くのではなく、一塊の文章を書いてから、その中の重要なフレーズをタイトルにする」という理解で正しいですか?
確かに「ページタイトルを先に決めてから書くのではなく、一塊の文章を書いてから、その中の重要なフレーズをタイトルにする」という行為の負荷は高い
楽に書き込める場があれば、メンバーの時間がそれに消費されてしまう、それによって知的作用の妨げになる、という主張もわかる
それに対して付けられた「違和感駆動」という言葉の意味がわからない
だがまあ、これは「いま言語化されつつある概念」なのだろうから、言葉で説明を求めるよりも体験する方が良いと考えた
なのでやってみた
ここを書いている時点でまだこのページにタイトルはない
さて、どんなタイトルをつけるか…
行為の負荷は高い
違和感
知的作用を進める
負荷の高い行為で知的作用を進める時、なぜ違和感が関係するのか?
軽く書いて、「いや、そうじゃないんですよ」というようなツッコミを促したりして(呼び水効果、違和感駆動) 「軽く書いて」
負荷の高い行為ではなさそう