生み出した人間がその生み出したものの価値を決めることはできない
nora.icon生み出した人間がその生み出したものの価値を決めることはできない。
rashita.icon生み出した人間がその生み出したものの価値の総体を決めることはできない。
自分で認める価値の分は、自分で決められる
issac.icon「DIYで作ったこのイス、自分ではお気に入りなんですよ」
nora.icon生み出した人と、それを用いる人が一致している場合、用いる人として価値を認めているということと、生み出した人間として価値を決めていることはちょっと違ってくるのでは、と思ったのですがどうでしょう。
ユーザーと作者というスタンスですかねissac.icon
用いる人=ユーザー、生み出した人間=作者と解しましたissac.icon
nora.iconそうです!
不可分だと思ってました。分けられるんですねえissac.icon
nora.icon無人島に一人だけいたら、というのが状況の設定としてよく使われますが、存在しているのが自分一人だけなら作者=ユーザーで「自分」以外の価値基準はないですが(分ける必要がない)、他者がいるということはユーザーの方が自分以外に増えていくということかなと。
そうですね。作者=ユーザーなら、価値基準を分ける必要はないissac.icon
自分に向いているかどうか、だけ考えればいい。(タスク管理やらなんやらの向き不向き)
nora.iconそして社会での価値みたいなのを考えるとき、ユーザーの数が圧倒的に多くなり、そのうちのどれだけの人数、あるいはどれだけの割合に認められるかという問題になってくるイメージです。
自分というユーザーの存在感は数の上で相対的にどんどん小さくなっていく。
すると、自分が「価値がある」と信じたとしても、「同調する他のユーザー」がそう思わなければ(或いは他のユーザーが同調することを確かめられなければ)それに価値があると「決める」ことはできないのでは?という仮定を今してみました。
(いやいや違うのでは、というコメントも大歓迎です)
「資本論」みたいな話になってしまう。
(資本論の知識とかはここでは全然関係ないです)
リンクしている感触を感じ取られているのは、重要だと思いますissac.icon
一見関係がなく思えたとしても
ユーザーの大多数が価値がないと考えているが、作り手としては価値があると考えている製品に、価値はあるのか?
rashita.icon市場的価値はない、と言えるでしょうね。
価値にも所属する文脈がある→だからこそ「価値の総体」
そして、それが所属しうる文脈を事前に完璧に推測することは不可能である、という視点を取れば、価値は(可能性として)いくらでも見出しうるものである、と言えそう。
なるほどですissac.icon
目的意識に寄っていそう
nora.icon「自己満足」に市場的価値は要らないですね。
多くの人に受け入れてもらえる製品を目指しているのであれば、ユーザーに価値がないと思われているのは、よろしくない。
たとえば、Scrapboxは独特の哲学をもっている
マークダウンを使わない云々
nora.icon生み出した人間が決められる価値はあくまで一人分であって、ユーザー一人が決められる価値と変わらない?
「一人分」というとなんか微妙か…
総量を言いたいのではないという意味で「一人分」の表現が微妙だなと自分で思いました。
生み出した人間が思う「これには価値がある」に特別性はない、みたいなことが感覚としてあります。
というかやっぱりそこにあるのは「一人のユーザーとして」であって、「作者として」価値を決めているのか?
制作者がいくら「この製品は特別なんですよ~!」と伝えたとしても、「いや、ほんとですか?」ってなる、ということでしょうかissac.icon
そう…だと思います(それもある、というか)nora.icon
私の理解、ちょっとずれていそうですissac.icon
私の表現が抽象的というか自分の感覚を言語化できていないせいです、すみませんnora.icon
「価値があると感じる・信じる」と「価値がある」の間に境界を感じている、ということかも。nora.icon
rashita.iconまさに決定不能・証明不能なことなので、「信じる」ことが必要な対象ですね。価値というのは。
nora.icon価値とは見出されるものであるという元の文脈に帰ると、「提供する主体」と「見出す主体」とがあり、価値は「見出す主体」の存在あってこそということになる? 提供する主体⊆見出す主体、の時に自己満足が成立する。
なお提供する主体が見出す主体に含まれないこともある。
自分は一切必要としていない且つ実際に使用することができないが、他人が必要としているものを作る、というとき。
義手とか
医療行為全般
この時、提供する主体は価値を一切決められないのでは?
自己満足が成立するとき、「提供する主体」つまり冒頭での「生み出した人間」が何らかの価値を認めることはできる(自分で見出しているので)。