アウトプットの小さくて感覚的な差異が重要
rashita2 2021/05/07 12:17
rashita2 2021/05/07 12:38
ikkiTime 2021/05/07 12:51
rashita2 2021/05/07 13:01
ikkitime.icon
実際にやる人間にとっては、色々小さく変えながら試そう
ということでいいけど、「あなたのサードプレイスを私たちが提供します」と言いたいサービサーや、
本などでメソッドを提示したい人にとっては、具体的な条件や要素に分解できないのは、微妙に気持ち悪いだろうなあ
rashita.icon一応、この段階でもある程度「この辺かな」という特徴は言えるのですが、自分の持っているピースがあまりにも少な過ぎるので、全体像を語りたくない、という気持ちがありますね。
ikkitime.iconああ、なるほど。
自分ひとりではない。
かといって、Twitterのようなオープンな場ではない
ある程度顔なじみ・顔見知りの人が居る場(本名を知っている人はなく、誰なのかを同定できる程度の関係であればいい)
R-styleとUCの違いは、閲覧の違いではなく、直に対話できる人の違いとなります。
でもって、UCは小さいグループでの対話でありながら、それがpublicに向けて開いている、という二重性(クローズとオープンの地続き性)があると感じます。
ただし、これのバランスが唯一の正解ではないと思うので、また定義は揺らがせております
ikkitime.icon「観れる人を減らす」ことで心理的安全性を上げることよりも、積極的に「コメントをくれる人を増やす」アクションのほうが寄与する、ということが、ちょっと不思議な感じはするのですけどね。これだけネットのダークサイドが目に付くようになった時代に。
しかし現に、機能している実感はある。
rashita.icon
コメントがゼロ(完全に閉じた状況)→ビオトープが閉じる、水が濁る、閉塞感が強まる、自分の基盤がいつでも自己の認証を必要とするでぐらぐらと揺れる
コメントがありすぎる(鍵をかけていないTwitter)→突然FF外から殴りかかられる可能性があるので、自分の思いを率直に出せない。5000人の講堂のお客さんの前で、「自分の思い」を率直に語れるだろうか。
この二つしか選択肢がないのは、あまりにも狭いのではないか、という問題意識があります。完全にクローズな状態から見れば、コメントをくれる人を増やした状態で、完全にオープン(閲覧ではなく書き込みがオープン)な状態から見れば、コメントをくれる人を減らした(限定した)状態、という第三の状態。
対話が行われるのもこの状態ではないか。
こころを「ひらく」ために必要なのもこの状態ではないか
nora.icon意見交換の中に敵対心を含まないでいる、ということがちょうど良さの要件だなと思いました。
単に何かの話題に対して集まってきた人間同士だと敵対心が発生する
数が多ければ多いほどその傾向は加速する
よってある程度の仲間意識(帰属意識ではなく、「こんな感じの空気の中にいたいよね」という共通認識)を持つ同士での緩い繋がりが理想
しかし空気の入れ替えは必要
「内輪」感はじわじわとその場を蝕んでいく
UCは公開されていることによって外部の目を多少意識することがプラスに働いていそう
(個人的なことを言えば、他の場での交流の有無がここでの書き込みの資格的なものに関係していないことが非常にありがたいというか、こころに良いという感じがしています)
構成員は各々自分が(または世界が)豊かになっていくことを目指しているはずなので、新たな刺激は常に生まれていたほうがいい
構成員の動きが必要
いなくなっていく必要はないが、新メンバーが加わる機会が常に開かれている必要がありそう
浮上率が高いメンバーが時期によって変わるのも良い刺激になりそう
しかし新たな刺激はたぶん多すぎるべきではない
構成員の出入りが開かれすぎていると、安心感がなくなってこころをひらいていられなくなる恐れ
仲間意識的なものを共有していられる流速には限度がありそう
またUCに関して言えば、内容が短文のメモ書きや箇条書きによって構成されていることが、それを批判的に見ようとする気持ちを生じさせないひとつの装置になっている気がします
よって、UC的な場と、ブログおよびブログに対する反応の場は、性質的にかなり異なっている印象
Twitterは比較的短い文章であるものの主張の力を持つには十分すぎるので敵対心の発生を防ぐことができない
UCでは他の人の書き込みに対して「UCという場に書くからにはこういう背景によって書いているのだろう」と無意識に推し量っているので、各々の書き込みがひとかたまりの論理として(≒主張として)完成していなくてもコミュニケーションが成り立つ
インターネットの、オープン!フリー!という、ブルドーザーが、この第三の領域をごりごりと押しつぶしてきたのではないか、という問題意識も。
UCは、閲覧者はweb全体に開かれつつも、しかしここに書き込む僕たちの頭に浮かぶのは、そのようなWeb-Mobではなく、ここに参加している人たちのことではないか?
具体的な参加者がいることで、イマジナリーな観客が相対的に後景化する?
ikkitime.icon一時期、「内輪ノリをTwitterに上げて炎上する若者」みたいなものが話題になったことがありますけど、その認知バグを有効活用している感じ?
ikkitime.icon僕らの生存戦略としてサードプレイスを持とう!という章を設けるとしたら、何かを選ぶというよりは、「仲間を誘って立ち上げる」感じが有力なのかな。
rashita.iconあるいは、それっぽい集まりに(ちょっと勇気を出して)joinする、など。
分岐した疑問
rashita.icon「この場所はサードプレイスですよ」と提供されている場所と、馴染みのカフェや焼き鳥屋、カルチャークラブや雀荘との違いはなんだろうか。