▼人のアウトラインに攻撃性は生じない
nora.iconそういえば、全く同じ内容を文章とアウトラインで表してどちらも公開していたとして、アウトラインで見た場合にはあくまで仮説の一つ可能性の一つというふうに冷静に見られるものが、文章でやられると途端に受け入れがたくなったりする気がする。(私だけかもしれない) nora.icon本も、目次の時点でなんか合わないなと思ってもそんなにけしからんとは感じないけど、本文を読んでしまうと仮に目次で察した内容そのままでそれ以上のものでないとしても許しがたくなってくる気がする。「敢えて人がすんなり読める形にして出す」ということには強い意味が生じる感じがある。
nora.icon「リニア」というのは感情と結びつくということを意味しているのかもしれない。「直情」って如何にもリニア。リニアでないものには感情は追いつけないというか。 nora.icon感情にはターゲットが必要で、そのターゲットにはある程度の「長さ」が必要、みたいな。そして感情を動かすのに必要なその「長さ」が異様に短いのがキレやすい理不尽な人っぽい。という印象。
nora.icon思考が色々なところを転々と旅している人はそうそう怒らない気がする。でも何かが原因でひとところに留まると人が変わったようになることがある。それを引き起こすのは怒りを呼ぶものの「量」というよりは、その文脈を感じている「長さ」というイメージがある。
nora.iconアウトラインの話に戻ると、アウトラインに対しては批判の方法が見つからないというのも大きいかも。実現可能な攻撃方法を知っていると攻撃性が生まれる。銃を持てば撃ちたくなる。攻撃しようがないものは、攻撃の対象として認識しづらい感じがある。
nora.icon例えばツイートに対しては反論のツイートをリプや引用によって発信すれば攻撃が成り立つとわかるしその実践は極めて簡単なので、そんなに怒るほどのものでもないツイートでもなんか妙にムカッときたりするんではないか。実際には直接反論なんてしない人でも。「我慢してやってる」という意識になる?
nora.iconそう考えると、「リニア性」より「攻撃可能性」の方が正しい気がする。が、「リニアでないもの」は認識が難しいので、結果的に攻撃可能性を上げないで済むことになるのかもしれない。しかし批評の方法論が確立されて批評家が生まれ始めるとやはり攻撃可能性が上がってくるっぽい。 nora.icon例えば芸術作品に対する攻撃って個人的にはよくわからない話なんだけど、批評の方法が共有されていることで「こうすれば攻撃になる」を学習してしまっているように見える。