〜式と〜流の語感の違い
たとえば、「倉下式タスク管理術」と「倉下流タスク管理術」という言葉があるとして、それぞれの語感の違いはどのようなものだろうか。
nora.icon
「自己流」とは言うが「自己式」とは言わないところに手がかりがありそうです。
「~流」は精神論を伴っているイメージがあるような?
「流派」は何をどうするということに留まらず「どのような心であるべきか」を定義に含んだグループ分けっぽい。
「流儀」を辞書で引くと、「しきたり」の四文字が載っていることがある(載っていないこともある)。
「~式」は精神性についてはそれを実践しようとしている人それぞれの自由というイメージ。
ロジカル。
「~流」は自分がそこに適応する、「~式」は自分にそれを取り込む、というイメージを持つと言える?
昨今の「~式」「~流」が使われている例を見るに、実際にそれほどの差を感じることはないが、大本にはそういうベクトルの違いがありそう。
rashita.iconたしかに、自己流とは言うが自己式とは言わない
自己式は、むしろ重複感がある。
「hoge式」は、それ自体でオリジナル(原初を実践者に持つ)という感じがある。
自己流は、本流というものがまずあって、そこからの逸脱という雰囲気を受ける。
オリジナルであることは、基本的に要請されていないけれども、のようなニュアンス。
ここから、「hoge流」は、同一階層に別の項目が並び得る感じがある。
親hoge
hoge
hoge
対して「hoge式」は、それぞれが別のオブジェクト、という感じがする。
その意味で、rashita.iconが何かしら新しいタスク管理方法を(? craft or create)したら、「倉下式タスク管理術」がなんとなくフィットしそう。