「練習」の解釈が食い違っている
nishio.icon
特にタイトル不要性と、タイムラインによる自動的な文脈形成は、極めて楽である。つまり、負荷がない。筋トレと同じで、負荷がないところに能力の向上は見込めないので、意識的に「ちょっとしんどいこと」をやっていく必要がある。
それが言葉にする練習
形容するとすれば、Unnamed Campというのは幼稚園なのか...大学なのかがわからないという感じ
理念からすると幼稚園や小学校なのではないかと思う
理念からすると幼稚園
この解釈と下記の解釈は食い違うように思う
筋トレと同じ
負荷がないところに能力の向上は見込めない
身体が出来てからやること
つまり「言語化が既にある程度できる人が、より強くなる」手段
「理念からすると幼稚園」という解釈がどこからきたものか?
ページを書いた人が何を求めているか推測して、それにそうようにコメントする
これを読んだ時のnishio.iconの反応
僕にとって慣れない思考の流れ
書いた人が当たり前だと思っているところに「いや、それは本当にそうなのか?」という違和感の表明をすることの方が多い気がする
相手が幼稚園児だと解釈するなら「何を求めているか推測して、それにそうように」振る舞うのには納得感がある 僕はこの前提がなかった
nora.icon極めて心外な言い方をされているのでひとまずこの部分についてだけ反論させていただきますが、「大学であるかのような緊張感を持たずにとりあえず書いてみて良い場所として考えたほうが良いのではないか」というつもりで幼稚園だとか小学校だとかいうワードを出したのであって(そもそも学校ではないがという断りも入れていますが)、私が他人を幼稚園児だと解釈して人様と接しているわけではありません。「こういうつもり」というのを正確に言語化できていない未熟さについては反省はします。
そもそも、私個人の思考方法と、このプロジェクトのあり方についての議論を混ぜて語らないでいただきたい。
nishio.icon何が心外なのかよくわからないのでもう少し言語化して欲しい
何かを混ぜたと解釈していて、それが心外??
nora.icon人を幼稚園児だと解釈している、と見做すのは失礼ではありませんか?
nishio.icon誰に対してですか?あなた自身に対して?
『「『AさんがBさんをXだと解釈している』とCさんが解釈している」とAさんが解釈している』というシチュエーションでAさんが「失礼だ!」と言っている、この時に誰が誰に対して失礼だと言っている?
「CさんがAさんに対して失礼である」というなら同様に「AさんもCさんに対して失礼」ですよね
少なくともAとCが対等であるなら。
Bさんに対して失礼であるというなら、確かにそれは失礼だと感じる人がいそうなメタファーですね
nishio.iconはメタファーを使って言語化をする時にそのメタファーが失礼と受け止められる可能性をあまり考えない傾向があると思います。これは良くないことです。
rashita.icon横から口を挟むのどうかとも思いますが、ちょっと議論が混乱しているので書き込んでみます。
たぶん「相手が幼稚園児だと解釈」という部分が問題を引き起こしているのではないかと推測。
この表現がややこしいので、ここで「相手が、言語化に十分に慣れていない人」とメタファーを抜いた表現に直します。
それであってますよね。
賛成ですnishio.icon
にしおさんは、上の意味で(つまりメタファーで)言っているのであって、別に相手のことを幼稚園児(のような存在)だと思っている、という直接的な意味ではないと推測します。
整理すると、「相手が、言語化に十分に慣れていない人」であると想定するならば、「何を求めているか推測して、それにそうように」発言するのは自分にも理解できる、という発言だったのではないかな、と。 そうですねnishio.icon
「相手が、言語化に十分に慣れていない人」であり「自分には相手が何を求めているか推測する能力がある」という前提が成り立つ場であれば、その場での好ましい行動として「相手の求めていることにそうように発言」が生まれることは理解できる
nishio.iconはこの場に対してその二つの前提が成り立つと思っていなかった
特に後者「自分には相手が何を求めているか推測する能力がある」に関しては「ない」と思っている
前者に関しては言語化もできていなかった
それがこのページ、という流れ
rashita.icon練習のレベルのイメージをすり合わせるために、きちんと言語化する必要があるわけですね。なるほど。
nora.icon「ちょっとしんどいこと」をほとんどやったことがない人を想定するか、やれることはやれるけどやる習慣がまだできていない人・更に上を目指している人を想定するかという曖昧さは感じており、敢えて曖昧なまま全てを受け入れる場所を目指しているのかなと(勝手に)思っていましたが、いずれにしてもきっちりさせる必要はあるのかもしれません。