所属を開示すると色眼鏡で見られる
inspired by /villagepump/自己開示の量が対等でない
情報の開示とは本質的に贈与なのではないか
/nishio/デリダと柄谷行人の贈与
交換様式A
だから、自分はすごい誰それと関係があるぞ的な、支配的・コントロール的・期待的な開示もある
情報を与えた瞬間に、その副作用は不可分に発生する、純粋な贈与は存在しえない
ナイーブに、システム2にやましいことがなければ開示できるはずという信念をインストールされがちな気がする
警察や法廷、裁判がそういうものだから
これは、あらゆることを天秤にかけて、全て事実を明らかにして判決するというフェーズに移行してしまったからそうなってる
当事者は、事実が明らかに"なってしまう"のを受け入れて、それでも相手との和解?解決を求めて訴訟をする
二度と関係したくないという形の解決も含め
開示の副作用が善なるものとは限らない
被害者だけ報道するなあたりが一つの例
恣意的切り取りや相手の時間に敬意を表するの問題もある
この信念がフェーズを限定したヒューリスティックスにすぎないことを自覚する必要がある
誰が言ったかより何を言ったか、心身から一度離れて純粋行為での評価、さらには全く新しい心身の獲得を目指すとき、所属を伏せてもよいことが有益になる
定住と飛翔
アバター
例えば、常に社長とかプロフェッショナル(医者、弁護士、etc)として扱われることに疲れて、そういうものから切り離した自己としてありたいことはありうる
分人
しかし贈与であるので、信頼関係の構築に必要な要素でもある
それは具体的に年齢や所属である必要はない
しかし別の何かで代替したいとき、そこには独りよがりでない共感の土台が必要になる
社会的な行為なのだから
これが難しい
みんなが子どもの頃にならった自己紹介フォーマット
私の名前はXXです。好きなことはXXです。将来の夢はXXです。
これが、ある種の形式的な確認(同じ文化圏にあること)になっている
熱心なタコ
ということは、フォーマットだけあってればいいのか?
いや、嘘は小さくても信用を損ねるから難しい
適当にでっち上げればいいわけでもない
つまり、心身によらずに信頼を確認し合うマナーが必要になる
しかし心身によらずに信頼することは本質的に不可能・有害だ
バザールでは本質的に不気味な他者と関係する
昨日まで盗みの常習犯だった人でも、その心身を恣意的に隠すだけで他の人と同様に信頼される状態は社会的に脆弱
区別と差別は倫理的なもので、簡単に分別できない
差別を避けるために区別に必要な情報を隠すことは、やましさとしてシステム1に処理されてしまう
だからむしろ制限の方だと思う
権限最小の法則
ある種のコミュニティでは、所属や来歴によらず無条件で人を歓迎することができる
いわゆる匿名掲示板はこれなのではないかtsuzumik.icon
5ちゃんねるやニコニコ動画
この種のコミュニティには、互いの影響力に上限があるべき
つまり、前提としてネットの知り合いをリアルで見るにはできないことが必要
リアルで会うのはsudo権限
同時に、権限を互いの承認のもとで引き上げるためのゲーテッドコミュニティも必要になっていく
互いの承認とかいうむずかしさパートよ
誘われたがりは甲斐性なし
ここまでの議論から、誘うことは本質的に自他にリスクを与える、権限昇格の試験のようなもの
あなたとの関係にsudo権限をください、ということに近しいものがある
もっとグラデーションあるけれど
愛の告白
拒絶は必ずしも信用のなさを露呈するわけではないが、感情的にそこをマネジメントできるかは人間力次第
自己開示は贈与
関係の権限昇格
ボードゲームする権限だけくださいtsuzumik.icon
RBAC
キャラフィルターもある意味、権限範囲を明示して心理的安全を作る仕組みか
ツンデレの暴言が許されるのは、その行為から相手を傷つける権限がはく奪されているからだ
メタ的に照れ隠しの設定や直後のフォローを強制されることで、相手を痛めつけてやろうとして暴言を吐く能力が剥奪されている
ここ人文学的でうける
だれか論文書いてください
もうあったりして
自由と責任はセット
つまり人類には、関係のRBACが必要なのであって、肩の上の秘書がこれを実装しうる
いよいよコミュニケーション・アーキテクトの社会実装の片鱗が見えてきたのではないか?(まだ過言)
#CA_factor