所属を開示すると色眼鏡で見られる
当事者は、事実が明らかに"なってしまう"のを受け入れて、それでも相手との和解?解決を求めて訴訟をする
二度と関係したくないという形の解決も含め
開示の副作用が善なるものとは限らない
しかし贈与であるので、信頼関係の構築に必要な要素でもある
それは具体的に年齢や所属である必要はない
しかし別の何かで代替したいとき、そこには独りよがりでない共感の土台が必要になる 社会的な行為なのだから
これが難しい
みんなが子どもの頃にならった自己紹介フォーマット
これが、ある種の形式的な確認(同じ文化圏にあること)になっている
ということは、フォーマットだけあってればいいのか?
適当にでっち上げればいいわけでもない
つまり、心身によらずに信頼を確認し合うマナーが必要になる しかし心身によらずに信頼することは本質的に不可能・有害だ
昨日まで盗みの常習犯だった人でも、その心身を恣意的に隠すだけで他の人と同様に信頼される状態は社会的に脆弱
区別と差別は倫理的なもので、簡単に分別できない
差別を避けるために区別に必要な情報を隠すことは、やましさとしてシステム1に処理されてしまう だからむしろ制限の方だと思う
ある種のコミュニティでは、所属や来歴によらず無条件で人を歓迎することができる
いわゆる匿名掲示板はこれなのではないかtsuzumik.icon この種のコミュニティには、互いの影響力に上限があるべき
ここまでの議論から、誘うことは本質的に自他にリスクを与える、権限昇格の試験のようなもの あなたとの関係にsudo権限をください、ということに近しいものがある
もっとグラデーションあるけれど
拒絶は必ずしも信用のなさを露呈するわけではないが、感情的にそこをマネジメントできるかは人間力次第
ボードゲームする権限だけくださいtsuzumik.icon
ツンデレの暴言が許されるのは、その行為から相手を傷つける権限がはく奪されているからだ
メタ的に照れ隠しの設定や直後のフォローを強制されることで、相手を痛めつけてやろうとして暴言を吐く能力が剥奪されている
だれか論文書いてください
もうあったりして