応無所住而生其心
対象に心を向けるが、執着せず、あるがままに扱って対応していくこと。
「応(まさ)に住(じゅう)する所(ところ)無(な)くして而(しかも)其(そ)の心(こころ)を生(しょう)ずべし。」
「まさにじゅうするところなくしてそのこころをしょうずべし」
ここで、沢庵禅師が但馬守に示された言葉を思い起こしましょう。
「不動と申し候いても、石か木かのように無性なる義理にてはなく候。向こうへも、左へも、右へも、十方八方へ、心は動きたきように動きながら、も止まらぬ心を不動智と申し候」
四方八方に動きながら、しかもどこにもどどまらぬ心、それが不動智だと言われております。これをわかりやすく譬えて申しますと、京都の四条通りを自転車に乗って走るようなものであります。あの雑踏のさなかを、衝突せずに無事に乗りきるには、電車、バス、トラック、タクシー、オートバイ、他の自転車、横断者、あらゆるものに気をくばりながら、同時に何もかも忘れていかなければなりません。この、四方八方に動きながら、しかもどこにもとどまらぬ心、これを不動智と言うのであります。「応に住する所無うして、而も其の心を生ずべし」とは、このことであります。
『新版 禅学大辞典』には、「〔金剛般若経〕中の一文。〔般若心経〕の『空即是色』と意味は同じ。般若皆空の境地に到達した人は、対象物に対して心を向けるけれども、それに心が奪われたり執著したりすることなく、それをあるがままに自由自在に駆使し処理して行くことを言ったもの。中国禅宗六祖慧能は出家前、市中で柴を売り歩いていた折、一客が〔金剛經〕を誦するのを聞き、『應無所住而生其心』の文に至って大悟したという」とある。【應無所住而生其心】
柴山全慶編『禅林句集』には、「一處に住することなく心を生ぜしめよ。何物にも執着することなく心をはたらかせよ。無執着の心行。無念無心の自由なはたらき」とある。【應無所住而生其心】
『禅語字彙』には、「何物にも執はれざる心を以て、物事に對せよの意。畢竟無執著、無蹤跡の心念のことにて、金剛經中の有名なる一句也」とある。【應無所住而生其心】