人が何かを教える・教わる時の作法
守破離だけでもなく経験主義だけでもなく、自分が受けた教えを、思考・身体の両面から洗練させ統合していくプロセスなのかもしれない。 守破離は「守=絶対」という前提になっているので、その前提を疑うというプロセスを守の後に挟む事が必要っぽい。
最初から疑ってるのはダメ
人が他人に何かを教えるとき
自分の教えが、自分ができることすべてを表現できていない可能性を認識しておく(言葉の限界)
身体ではできることは、すべて言葉で伝えることはできないという前提
言葉で説明しようとすればするほど遠くなる
無意識に行っていることを、どう意識するか?
メタファー、やってみせる、やってもらい学んでもらう
真似してもらう
教えの通りにやった弟子の結果をみて自分の教えが正しいのかを省みること(教えの改善)
弟子がうまくできないのは、弟子のせいではなく、教え方が悪いためだと戒めること
弟子の成長を自分のことのように認め、喜ぶこと(弟子の成長は自分の成長)
弟子との対話
弟子の質問が、自分に気づいていない点を引き出してくれる
対話によって自分へのフィードバックがある
人が他人から何かを教わるとき
その人の教えを最初から評価判断せずに教えの通りにやってみること(そのままやってみる)
「教え」を神聖視しないこと
「師ができていること」は真実であっても、その「できていること」が「教え」として100%転化できているかどうかはわからない、という認識を持つこと
疑問はどんどん問うこと(問いのシャワー)
伝え手が認知できていない部分もどんどん引き出そうとすること
言葉の裏を汲み取ろうとする
師を行動・振る舞いをよく観察し言葉・教えに現れていない身体知を汲み取ろうとすること(身体からの学び)
形式知と暗黙知のギャップに気づく
師匠の教え(形式知)と振る舞い(暗黙知)のギャップや矛盾に気づくこと
教えの通りにやってもできないこと、師匠ができていることの差異は何か?
教えを守っていれば、できるようになるのか?についての反芻を行う
この部分は師匠と弟子でないと気づくのは難しいかもしれない。 師がどんな人格であろうとも尊敬すること
他での経験と照らし合わせて言語化・認知してみること