貧者のヴァーチャルリアリティ
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「本当かどうかなんてことはどうでも良くて,見たい現実を見せてほしいし,心地よい現実の方が真実よりも守るべき価値だ」,この考え方を否定するのは難しい.
人間中心主義からの脱却をデカルト以後の最大の転換と言ったが、デカルト以前の我々の世界認識を捉え直すため、宗教のことを思い出してみよう。原始宗教や宗教社会学については先に挙げたマックス・ウェーバーの貢献が大きく、著作も多い。原始宗教の定義については所説あるが、「まじない(儀式・儀礼)」を共通幻想生成機として持つことが大きな特徴である。 我々は洞穴や狩猟を行う小さな社会性と生と死が織りなす中で、原始宗教を生んだ。その後の農耕の発明はより大きな協調動作や暦の制定を促した。それにより大規模集落に統治機構や規範が必要になった、その中で我々は占術やシャーマニズムを発展させてきた。
社会規模と宗教の教義の緻密さには密接な関係がある。キリスト教や仏教が一つのプラットフォームとして機能したのは、マルクスの定義した上部構造、すなわち下部構造=労働の裏返しとして成立したのではないか。つまり、上部構造と下部構造の関係だけではなく、下部構造の要求する仕様としての宗教、人の精神補完装置としての意味が大きいのではないか。それは「貧者にとってのヴァーチャルリアリティ」として語りうるものだったのではないかと最近、僕はずっと考えている。ジャガイモを「貧者のパン」と呼んだ論があったが、現実を自由に振舞うことのできない人々にとっての現実が有史以来ずっと存在したのだ。 ここでいう貧者のヴァーチャルリアリティとは、自らが主体的に決定できない構造的弱者(例えば、為政者に対する農民)が、希望を持って生きて行くための精神的支柱のことである。具体的には、例えば念仏を唱えることで極楽浄土に転生することや教会で聖書を読みあわせることによって神の国を想像することなどが、日々の辛い生活に拮抗するためのソフトウェアとして人々にインストールされていったのではないだろうか。 それらは、極めてヴァーチャルリアリティに似ている。リアリティを生きるために、実体の確認が不可能な死後の世界を提示し、それを想像の中で実体に近づけていく、ヴァーチャルリアリティを現実に対するフィルタとして作り出す方法だ。勧善懲悪な審判がやがてやってくるという色眼鏡を通して世界を見させることに成功すれば、それは為政者にとって都合の良い規範を作り出すことができる。 映像の社会の中では、マスコミュニケーション上のコンテンツで語られるドラマや映画みたいなファンタジーもヴァーチャルリアリティとして振舞っている。つまり自分を現実から投射可能な世界だ。その意味ではディズニーランドも結婚式もヴァーチャルリアリティと言えるのではないだろうか。イメージを共有し作り出すための装置がイメージ内で完結するとき、それはヴァーチャルリアリティであり、その消費活動がもし何らかのプラットフォームと収益構造を生み出すならばそれは貧者のヴァーチャルリアリティになりうる。 そこの世界に宗教観は存在していない。完結された世界があるだけだ。ユートピアは進歩が止まった世界として描かれることが多いが、メディアの発展なき世界も進歩のない世界と同義だから、おそらく個別のコミュニティはユートピア的に振る舞うのではないかと考えている。 そうですね。そういう意味で「貧者の仮想現実(バーチャルリアリティ、VR)」っていう概念はきっと生まれると思います。サンフランシスコに住んでる貴族はみんな好きなことやって、この世界がまるでバーチャルリアリティの世界であるかのように好き放題に暮らしてるんだけど、他の人たちはそれを夢見るために段ボール(簡易型VRゴーグル)をかぶるっていう状況。「現実逃避」みたいなものです。段ボールか、もしくは数万円のハードをかぶって毎日過ごして、時間つぶして一生を終える。でもそっちが楽しいから、この世界でただの労働単位でいたとしても別に苦じゃない。だって、この世界で自己実現する必要がないんですもの。この考え方ってどんどんシェアされてる気がする。それを問題にした映画も最近出てきたじゃないですか。