落合陽一曰く「写真撮影はクリエイティブ脳の筋トレ」
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#ochyai
from 2022/9/24
落合陽一曰く「写真撮影はクリエイティブ脳の筋トレ」
写真撮影はクリエイティブ脳の筋トレ 落合陽一が語るカメラへの愛情 | 朝日新聞デジタルマガジン& and
自分の目で見た世界を発信し続けることで誰かに視座を共有したいという思いがあるのかもしれません
写真を上げることで"視座を共有"となるのは強い
1日あたり300枚ぐらい撮るらしい
かなり多い、2022直島でも800枚ぐらいだった
2日ぐらいしか行ってない、これでもtkgshn.icon的には的にはだいぶ撮った方
2022あいちトリエンナーレでは80枚ぐらい
2022/9/25の大徳寺でも60枚ぐらい
2022/9/16 tuguと京都で会ったでも270枚ぐらい、これはLeica Q2をレンタルし始めて初日かな
毎日これぐらい撮るとかなり撮ってる方だと思う、これでも色んな場所行って初めてこれなので、ochyaiはかなり多いことになる
僕にとって写真撮影は筋トレのようなものです。研究や経営や教育だけをしていると、どうしても右脳というか、「クリエイティブ脳」が弱まります。僕にとっては「イメージと対話すること」が重要なキーで、撮影することでだんだんとイメージと対話ができるようになり、クリエイティブ脳を復活させることができるのです。
この記事見て、プリントしたいなと思った
みたいな話をrakudaとしてた気もするし、してない気もする
それをして分かったことがあります。記録や記憶のための撮影は首下げの小型カメラで十分です。食べた料理を撮るぐらいならそれでいい。ただ、“印象”とか“当時の自分の気分”を保存しておくには、わざわざフレーミングしたという記憶が必要になる、ということです。データとして何を食べたかをさかのぼるには、首下げカメラの画像があれば十分ですが、自分がどういう気持ちでその料理と向き合ったかを知るには、Twitterに言葉を残すとか、ライカで写真を撮るとか、そうした行動がとても重要になります。
フレーミングすること、つまり光線をどうとらえるかというところには、人間が目でどうやってものを見るかということを題材化した意味があって、ただ眼球の奥にカメラがついていてもだめなんです。レンズ選びやフォーカス選びは、撮影する人が、どういう気持ちで脳が見ているものを再現したいかを考えている点に意味がある。
視座の話そのものだ、フレーミングにこそ解釈が宿るという話
質量への憧憬へももちろんいった
ソルトプリント、気になる
写真家としての落合陽一が見せる質量と物質感。「質量への憧憬」展がamana squareで開幕|美術手帖
「計算機と自然・質量と有限性への偏愛・床の間にメディアアート を」 / メディアアンビショントウキョウ2020(前編)|落合陽一|note
500年持つと言われているプラチナプリントとメディア装置の対比は失われる機械の制約を感じさせる.質量のあるものは壊れ,質量のないものは忘れられる.