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雑記メモ
西ヴィクトリア大学のアーサー・ジェフリー教授は、シベリアにおける永久凍土においてマンモスの発掘調査を行うと発表した。露西亜科学アカデミーとの協議の結果、レナ川流域において西ヴィクトリア大学ジェフリー教授らによる単独調査となる。調査費用なども西ヴィクトリア大学が負担する。予算は2万ポンドを超えるという。 この地域は、かつて露西亜科学アカデミーのヤクーツク支部が徹底的な調査を行った地点でもり、露西亜軍によるシベリア鉄道敷設の予備調査を兼ねた調査でも何も発見されていない。
その様なことから、ジェフリー教授の調査も無駄足に終わるのではないかと危惧されるが、周辺地域の住民の聞き取りなどから、古生物の冷凍化石などの発見が期待できるとジェフリー教授はみている。
また、この発掘調査には教授の後援者でもあるパワーズ男爵が資金援助を行うとのこと。 パワーズ男爵は、カナダでの地質調査でも資金を投じるなど、学術面での貢献は高い。
調査期間は1891年6月から8月までの3ヶ月。北極海が凍結する前に調査を終える予定だ。
調査団は予備調査のため5月初めにはヤクーツクに入る予定。
1891年1月ポーツマスから上海をへてウラジオストクへ向かい、陸路でヤクーツクを目指す。ヤクーツクには5月初めに到着予定。予備調査を経て6月から本格調査をはじめる。 1891年
7月25日 パワーズ男爵・機械主義者・ローマン記者らを乗せた飛行船ゴリアテが、シベリアへ向け飛行開始。
8月2日。ジェフリー教授、レナ川流域の永久凍土においてほぼ完全な形で冷凍保存されたマンモスを発見。
倫敦日報速報版
シベリアで発掘されたマンモスは、体高3m、体重5tほどとみられている。牙の長さも2m以上あり、完全な姿を見せている。まるで生きているかのようなマンモスだが、その巨体ゆえに、運ぶには解体する必要がある。ジェフリー教授は、出来れば解体したくないが、現実的に難しいと嘆いている。
8月4日。露西亜科学アカデミー、ヤクーツク支部長ドミトリー・セルゲーエフは、マンモスの引渡しを要求するも、ジェフリー教授に拒否される。
ジェフリー教授は、マンモスの周辺の凍土を僅かながら堀り返すが、吹雪で埋め戻されるため思うように作業は進まず。
8月6日 飛行船ゴリアテがヤクーツク到着。パワーズ男爵ら機械主義者が調査団に加わる。
同日。露西亜軍ヤクーツク管区の機械化歩兵連隊長アンドレイ・ボロディン大佐が、外国人義装者のシベリア滞在は許可されていないことを理由に調査の中止を求める。しかし、パワーズ男爵は在英露西亜大使館のビザがあるとしてこれを退けた。
8月8日機械主義者ら、マンモスの周囲の凍土を掘り返すことに成功。
8月9日マンモスの引き上げに成功。
8月10日 ジェフリー教授ら調査団とともにマンモスの行方がわからなくなる。
8月14日 間宮海峡海上にて、冷凍マンモスを積んだコンテナを冷凍貨物船ベルゲルミルに移送する。貨物船にはジェフリー教授・パワーズ男爵・ローマン記者が乗船する。(ゴリアテは一度ヨーロッパに戻り、SHをチベットまで乗せる) 8月19日 ベルゲルミルは補給のため横浜港へ寄港する。 8月22日 ジェフリー教授 帝国大学を訪れる。ナウマンゾウの化石の調査。
8月23日 ローマン記者 東京銀座の帝都新報訪問。外信記事の翻訳をしていた栗須源三郎と会う(源三郎は三ヵ月後に生まれた長男に浪漫と名づける。栗須浪漫は後に帝都新報の記者となる)。 8月25日 横浜港出港。
8月26日 ウラジオストクより、特務艦ペトリューシカ出港(後に太平洋上で巡洋艦隊(指揮:ゴルジンスキー大公)と合流)。 9月2日 ベルゲルミル、上海に寄港。
9月4日 上海出港。
9月12日 露西亜巡洋艦隊の追跡を受ける。
9月14日 ベルゲルミル、太平洋上にて、HMSヴァイスロイと遭遇。ハーフハイド大尉一時乗船。 9月25日 ボンベイに寄港。ジェフリー教授ら下船。飛行船ゴリアテにて帰英(9月29日)。
10月1日 自然史博物館にて、ジェフリー教授の会見。チャレンジャー教授が暴れて中断。
10月2日 在英露西亜大使館が遺憾の声明。
11月17日 テムズ川河口にて、冷凍コンテナを再びゴリアテに移し変える。 11月18日 西ヴィクトリア大学 特別保冷室に移される。
1894年
3月 ジェフリー教授、調査報告論文出版。
倫敦地質学会にて講演を行う。
5月 ローマン記者 ジェフリー教授の発掘記録上梓
1897年
9月10日 自然史博物館の冷凍展示室にて特別展示開始(~1902年10月)。
1907年
10月 英国王エドワード7世、英露協商に合わせて冷凍マンモス標本の1917年の返還に合意(露西亜革命により実質解消)。
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