日本文学
西洋人が見た文字日本近代文学
日本研究の先駆者である東京帝国大学のバジル・ホール・チェンバレンは日本の古典文学だけを評価したため、開国以後の近現代文学を評価していない。バジル・ホール・チェンバレンは、明治以後の日本文学はヨーロッパを真似た文学であるとして、「Europeanised Literature」(ヨーロッパの影響を受けた日本文学)読んだ
「此の度の開国は、日本文学に大打撃を与えた」という
アストンは日本文学史 1899がニホンブンンガクノ歴史を外国語で網羅的に書かれた初めてのしょせきで七章にわたるが開国からの話は少ない。
これに対して、当時の日本人は西洋人のステレオタイプでオリエンタリズムな古典贔屓を知っていて、下位春吉
戦前のアメリカの日本文学は1880年代からアメリカのキリスト教戦況牛やお雇い外国人が日本で活躍し、にほんぶんんがくはヨーロッパ経由ではなく、直接アメリカに紹介されたが、日本文学といえば古典文学がアメリカではメインだった。
徳富蘆花の不如帰 NAMIKO が1904に塩谷栄の訳で現代小説が英訳される。
その後1906ねんにフタバテイシメイノその面影があっめりかのクノップフ社から刊行された。
戦後の日本文学ブームとして戦争の体験帰郷や人間関係の失敗夢喰ふ虫によって居場所を失った主人公が昔の純粋な日本を探し求めるのがてーまで、これらが高く評価された。
1980年代まではビッグスリーの作品が支配的で、他の小説家はマイナーであった。また、サイデンステッカー、ドナルド・キーン、アイヴァン・モリスなど戦前米国兵士だった人たちが戦後のに日本文学の紹介者になった。戦前は、日本・米人による共訳が多かったが、戦後は米国人単独の翻訳が主流になった。戦前は主にヨーロッパの研究者が日本文学の中心であったが戦後はアメリカから翻訳されるようになる。
戦後に英国、仏蘭西、独国などの旧帝国が崩壊し、アメリカを中心として新世界秩序が生まれる。アメリカの日本文学ブームが起こり、世界中で日本文学の知名度を上げることに繋がった。
谷垣潤一郎は1958年から何回もノーベル文学賞のためノミネートされたり、三島由紀夫も五回も連続でノミネート、川端康成も8回ノミネートされた後、1968年にノーベル文学賞を雪国で受賞した。このビッグスリーが1980年代まで続く。
片岡真伊 日本の小説の翻訳にまつわる得意な問題2024 にはその当時の歴史なども書かれている。