文学
litratureは18世紀まで全ての書籍に対して使っており、文学・純文学という認識ではなかった。定義は曖昧だ。世界で、日本で、時代で、定義は異なる。今のように日本で創作を表すのは、英語・フランスのlitratureの訳語。 文学はバイアスを飛ばしてくれるから読む。心地よさから不愉快への成長だ。また、文学は自分自身やその周りを学ぶために有効な方法だ。 娯楽としての読書だけでなく、批判的思考を持ちながら読むと、批判のために歴史・社会・思想的背景の理解が必要になるかつ学際性が必要。 西洋が自らの優位性を確立するために、都合の良い「東洋(オリエント)」のイメージを一方的に構築したと断定する理論で、西洋は東洋を、非理性的で、エキゾチックかつ劣った「他者」として描き出すことで、自らを理性的で優れた存在として位置づけた文化的な支配の一形態だ。 人間の文化や社会現象、思考のすべては、その背後にある目に見えない普遍的な「構造」によって決定されていると断定する思想で、個人の自由な意思や主体性よりも、人々を無意識に規定する社会のシステムや関係性の網の目が、物事の本質を明らかにする。 生物学的な性(セックス)と、社会・文化的に作られた性別(ジェンダー)は全くの別物であると断定する理論で、「男らしさ」や「女らしさ」は生まれつきのものではなく、歴史や社会が作り上げた役割に過ぎず、ジェンダーによって生じるあらゆる不平等や権力関係を解体することを目的とする。
ex.南米に移住した日系人の文学は日本文学かどうか。WW2でU.Sの収容所に入れられた日系人の文学は日本文学、国文学と言えるかどうかという問いとラインの問題。文化生成の過程はリゾーム構造(千のプラトより )だ。これはこの国のオリジナルと断定するのはどうか。言語と文化は混じっている。プロフはキルギス、カザフスタン、ウズベキスタンどこの料理か。オリヤー語とベンガル語など。カレーはインド産で、16世紀にポルトガルが持って帰り、そこからイギリスに伝わる。その後海軍飯としてイギリスを真似したのが日本。ただ、移動の過程で味や作り方が変わる。食文化や料理法、人の食の嗜好性の違い。ではカレーは日本の料理ではないか。日本のカレーはインドのものかどうか?木ではなく、リゾームだ。千のプラト 人類は文字があったから保存ができた。歴史ができた。文学により過去の人々と対話ができ、また歴史に学ぶ事柄から未来を描く上等な万年筆になるからだ。経済のための学びだけでなく、他者、自身を知るために文学を学び、読み、書く必要がある。ta.icon
国文学は、日本の文学。日本文学。国文。日本の文学を研究する学問。広義には国語学を含む、國文。 日本文学とは、日本の風土、日本の国民性などに根差した日本人特有の文学。ただ、平安時代以前の東北地方の人々がつくった口承文学・伝説は誰のもので何文学か。また、植民地を持っていた戦前の日本文学と現在の範囲は同様か。江戸時代の国学、本居宣長などを経て、文学になる。言語を基準にする。明治・大正期にローマ字やエスペラントで日本人が書いた作品は日本文学か。民族を基準にする。民族ベースド。特定の国・言語・民族などを基にして定義される「国文学」は19世紀頃に世界的に確立された。他方、比較文学は国境を越えた視点で文学を捉える戦後に生まれた学問で、戦時中に欧羅巴から米国への亡命者らが立ち上げた。エーリヒ・アウエルバッハとか。譬えば、20世紀英吉利や仏蘭西文学はそれぞれ国単位で定義するがその構成に俳句が関わった。文学、芸術、音楽、宗教などの分野において、特に重要で価値があるとされる作品群(=カノン、正典)が選ばれ、権威化されていくプロセスをカノン形成と呼び、既存のカノンに疑問を呈し、見直そうとする動きを脱カノンと言う。譬えばインド・中国文学から説話文学が影響を受け独自に発展し、新たなカノン「今時期物語」、「今昔物語」に形成されたが、そのような問題解決に比較文学が活用される。他方、文学(歴史、文学、哲学など)と情報学(コンピューター、データ分析など)が融合した学際的な研究分野のデジタル・ヒューマニティーズ(デジタル人文学)が、発展した。文字や紙媒体では不可能だった大量の資料・史料の分析や、テキストのパターン可視化、新たな知識の創出、文化資源の活用などを、デジタル技術を用いて行う。人文学へのデジタル技術の応用、知識の再構成と新地平の開拓、データマイニングなど。青空文庫なども文学作品のデジタル・アーカイブ化、コーパス化(大規模言語資料)であり、かつオープンアクセスで学術研究の成果や資料を広く社会に共有するという点ある。 文学の読み方は、編集力を鍛えると、本を読みこなせて世界がつながって見えてくる。=[Linking Net 比較文学は一国や一言語の文学に限定せず、複数の国・地域・言語にわたる文学作品を対象とする「国際的」で文学作品を単に美的なテキストとして読むだけでなく、哲学、歴史、社会学、宗教、芸術など他分野と結びつけて考察する「学際的」で、特定の国の「固有性」を明らかにすると同時に、人類全体に共通する「普遍的テーマ」(愛、死、権力、アイデンティティなど)を追究するため「普遍的」 である。
比較文学
創作と多言語接続と言うのは、最近のことではなく、昔から行われていた日本だと明治前から行われる。
文学の翻訳は、創作家と言われるとそうではなく、文学的には二次創作と言う位置づけにされる。ただ、翻訳研究は比較文学の一部とされる。そもそも、文学の翻訳は可能か。というの問いで在り、哲学的。ただ、生まれつきの翻訳という翻訳しにくい語彙や表現を抑制し、作者が外国語に翻訳されることを想定したものがある。世界文学とは、国文学に対比して生まれた概念でドイツの思想家、文学者のゲーテが注目して有名にした。(weltliteratur)。その後、デビッド・ダムロッシュが文学作品の流通と受容、それに関わる諸問題を世界文学とした。元々はデジタルヒューマニティーズにおいてclose readingからデータとitにより広い視野で受容パターンを調べたりする.フランコ・モレッティは遠読を提唱し、デジタルツールを使い文学の量的な分析を提唱。その後、ホイト・ロングがデジタルツールを用いて、日本の近代文学から外国文学の影響を明らかにした研究を行う。
夏目漱石の吾輩は猫であるを比較文学研究するには、まず明治後期の歴史を知る必要あり。
比較文化では独自の文化ではなく、異なる文化のあ関係性や違いを明確にする。
世界文学
ゲーテのアイデアから、デービット・ダムロッシュが世界文学において、世界文学は本のリストで中プロセスである。生まれた国を飛び出し、旅をして外国で読まれた時にまるで新しい意味を得たように解釈が再定義される。世界文学には源泉文化(オリジナル)と受容文化(作品が旅した先の場所)。では翻訳で得られるものは何か。
世界初の世界文学の一つ、ギルガメッシュ叙事詩、紀元前1,200年に作られ、1850年に発掘されて、ノアの方舟に近い話が書かれていて感動を起こした。「エンキドゥよ、人は誰も死を免れることはできないのだから、私は山に入り、我が名を打ち立てよう。」
リガベルタ・メンチュウの証言。翻訳と循環をもたらす論争と今の再構築。ティスティモニオは自伝ではなく、集団的、共同的な記述・証言としての顔が強い。マヤ民族の聖なる証言としてと研究者により見つかったメンチュウ個人の話と史実の不一致により論争が起きた。この論争も世界文学的。
世界文学の読み方は
起源に思いを馳せ、翻訳の旅路を分析し、作品が獲得した新しい意味を理解し、読者として自分自身の人生と照らす。世界文学は暗記すべき図書館ではなく、参加すべき会話の輪。
普通に読むのに対して、心や文化の旅。見え方が変わる。ショウペンハウエルの悪書を読むなはカノンを読めという意ではなく、深く読めないのであればそもそも読みやすいものでなく難解な物を読めという哀れみなのかなと。
良書、悪所は基準や人による。カノンも同様。悪い訳ではないが、神の導きではなく、人が手がけたものであると知っておくべき。