#0191卅 カオスでノイジーなトークに意味はあるかといえば大いにあるよの話 今回のエピソードでは、カオスとノイズがトークに与える意味について深く考察されています。特に、カオスな状態がなければ、コスモスの美しさや静寂の価値も理解できないという視点が強調されています。また、カオスとコスモスのバランスが欠けた現代社会においては、無駄な雑談やコミュニケーションが減少し、人々の関係性が希薄になっていると語られています。ノイズとサイレンス、トークと沈黙の共存が大切であることも強調されています。
カオスの意味 00:03 現代社会のカオスとコスモス 05:17 ノイズと沈黙の重要性 07:21
カオスの意味
優雅に始まり、のんきに終わる。喋れるだけ喋る、191個目のエピソードです。今日は6月の15日ですね、はい、日曜日。日曜日なので静かですね、工事もなくて、昨日の配信ひどかったね。工事。工事の音、ひどかったね。あれ配信、あの収録終わった後、ちょっと静かになったんですけど、まあでも、気が狂いそうなくらいうるさいですね。はい、びっくりしました。最後まで聞けた人いないんじゃないかっていうくらい、カオスな、カオスでノイジーな配信でしたけどね。はい、失礼いたしました。
今日のタイトル、まあそれを引きずってるわけじゃないですけど、喋れるだけ喋る、191個目のエピソード。カオスでノイジーなトークに意味はあるかといえば大いにあるよの話ということで、もうあえてね、開き直って、カオス、カオス万歳、ノイジー万歳、トーク万歳ということで、まあそういう話をしてみようと思います。
まあこれ結論から言っちゃうと、カオスがなければコスモスもない、ノイジーがなければサイレントもない、トークがなければ沈黙もないというね、まあそんな話なんですけども、だからこれはもう必要なんだね。
例えばコスモスだけで、コスモスっていうのは宇宙のコスモスね、まあ花のコスモスも同じ語源で、実は明日の早起きは三文の徳はコスモス話をしようと思ってるんですが、まあそれはさておきカオスとコスモスね。ギリシャ語に語源があるのかな、もともとはね。整然と整った様子がコスモス。
コスモスっていう花は、これ明日の話になっちゃうから明日しますけど、まあとにかくカオスね、もうぐちゃぐちゃしてると。宇宙も最初はカオスだったとかね、あの人の頭の中カオスだよねとかね、まあ頭の中だけでよかったねみたいな感じですけど。
ノイズィーね、サイレントの反対。トーク、トークの反対は難しいね。まあとりあえずトークしない状態ね、無言ですね、沈黙ですね、沈黙。
結局、カオスがなければコスモスだけで、コスモスのお花畑だけで、しかもサイレントで静寂だけがあって音が一切ないと。無音状態。しかも誰も喋らない、無音で無言と。
サイレントの畑で無言で無音だったらまあそれは美しいかもしれないけど、生きてけないよね。生活感ないし、全くね。それだけじゃ人間は生きてけないということで、むしろやっぱりカオスな部分がなきゃいけないね。それからノイズィーな部分がなきゃいけない。そして何かトーク、お喋りもないといけないってことで、これは大いに意味があるんですけど。だからそういう意味では、極端ですけど、もう全くノイズィーで全くカオスで、全くもうどうでもいいトークっていうのは、やっぱり意味があるんじゃないかなという風に思うわけですね、私はね。
それがなければコスモスの美しさもわからない。それから静寂の大事さもわからない。昨日の配信ほんとひどかったね。あれで静寂のありがたみを知るわけだよね。ほんと今日なんかもう心安らいじゃって、いいよね。静かでね。日曜日ね。小学生は通らないし、工事はないし、毎日日曜日であってほしいね。ほんとにね。それからトークね、これもだからずっと無言だったら困っちゃうけどやっぱりトークするからね、何かが生まれるわけでね。まあそんなわけで、カオスでノイズィーなトークに意味があるかといえば大いにあるよっていうことで、それがなければね、コスモスも生まれなかった。これ宇宙論だね。宇宙論。カオスがなければ、
コスモスは生まれなかった。これもう真理だね。おそらくね。ノイズがなければ、世界はノイズに満ちてるわけで、もともとね。ノイズなき世界なんてないわけで、無音室って入ったことあります?。気持ち悪いですよ、無音室。それこそ楽器工場とかね、ヤマハとかカワイとか行けば、あるいは音響ね、ローランドとか行けば、無音室ありますけどね。ほんとに全部の音が吸い込まれていくから気持ち悪いですよ、無音室。ワイヤーかなんかの上に乗ってね、もう無音の状態でなんか怪しい空間に入って経験しましたけど、無音室ほど気持ち悪いものはないですね。やっぱり人間ってノイズがないと生きていけない存在なんだなぁって、
無音室入るとよくわかりますね。まあそれからあとトークね。これもうみんな無言だったら、みんな沈黙して、みんな喋んなかったらこれ困っちゃうね。なのに意外と嫌われるんだね。カオスは嫌われる、ノイズも嫌われるね。トークはまあ嫌われないかもしれないけど、まあでもカオスでノイジーなトークは嫌われるよね。やっぱりね。あの人うるさいよね、みたいな。カオスの話ばっかりまたしてるし、毎回同じことカオスに話してるし、しかもノイジーだし、フィラー音バリバリだし、環境音バリバリだし、聴いてらんないよね、よく配信してるよねって言われちゃうかもしれないんだけども、それはいいんですね、やっぱりね。それがあるから逆にありがたみがわかる。
コスモスのありがたみ、静寂のありがたみ、そして無言のありがたみね。無言ってのは大事なんだよね。沈黙とか無言ってのはとても大事で、言葉がなければ無言もなかったっていうことなんですよね。実はね。アリンコは無言ですよね。ある意味ね。言葉、喋ってるのかどうか聞こえないけど、ピポピポきましたね。例えばアリの世界、喋れないアリンコは、触覚だけでコミュニケーションとってる。多分喋ってないと思うんだよね。あれ喋ってたらね、声がちっちゃくて聞こえないだけかもしれないけど、喋ってないと思うんだよね。なので、鳴かないしね、アリンコはね。ある意味、静寂の世界だよね。土の中潜っちゃうわけで、
静寂が好きなんだね。カオスじゃなくてコスモスなアリの巣、芸術的なアートを作るわけだからね。すごいよね。アリっていうのは、ある意味ね。そういう意味ではね。
だけど、やっぱり世界はノイズに満ちてるし、ノイズがあるから、いろんなものが生まれてきたんだと思うんだよね。やっぱりね。カオスがあるからいろんなものが生まれてきたと思うんだよね。無言も、無言はトークがなければやっぱり生まれなかったわけでね。
だからそういうものを、だけどなんでカオスが嫌われるかなーとかね。なんでノイズが嫌われるかなーっていう。それで静寂を求め、コスモスを求め、なんかお花畑で無言の世界で無言の世界で、意外と無言で今スマホに向かってみんな、喋ってる人も中にはいるけど大きな声でね、そうじゃなくて、なんか喋らずに打ってるわけだよね。フリック入力が多いね。音声入力すればいいのにね、みんなね。意外とフリック入力から卒業しないね、みなさんね。よっぽど沈黙で書くのが好きなのかな。物を書くときは黙って書くっていうね。意外と書き始めると黙っちゃうのね。今書いてるからちょっと黙っててってね。
人が喋っててもノイズィだし、書く作業って意外とサイレントな作業だったのね、ずっとね。だけどこれからは、音声入力で書く時代だから、あのボイスで書く時代だから。サイレントで書く時代は終わったと思ってるんだよね。
しかも語る言葉って意外と書かれた言葉よりも編集されてない分、外部編集されてない分、意外とカオスを含んでるわけだよね。
カオスを含んだ語り言葉とノイズを含んだ語り言葉と、それからボイスだよね。ボイスで語る語り言葉と、ここに実はね、
現代社会のカオスとコスモス
世界の始まりがあるって変な言い方ですけど。ここにやっぱりね、これがもう豊かにないと、コスモスもなければ、サイレントもなければ、そして無言もなかった。沈黙の美徳もなかったってことだと、私は思ってるので。
そういう意味ではね、工事の音みたいなノイズはちょっと勘弁してくれと思うけども、ああいうノイズはね。だけどやっぱりカオス、カオスが少なくなっちゃったよね。
昔、街はもっとカオスだったんだけどね。人間ももっとカオスだったんだけどね。カオスがなくなっちゃって整然としちゃって綺麗になっちゃって、ノイズもどんどん極力排除されてね。
ノイズも排除されて、まぁ生活音は別としてね、ノイズも極力排除されて、そしてみんな無言でスマホを打ってると
いう感じで。喋ってる人はまだ少数派じゃないですかね、今ね。音声配信でしゃべってる方が少数派じゃないですか。
みんなXツイッターとか打ってる時は無言に、無言で打ってるんじゃないかな、きっとね。LINEとか打ってる時はもう無言で打って、喋りながら打つ人いないし、音声入力でLINEやってますとか
あんまり聞かないしね。限られた時間だけライブで喋ってますみたいのはいるけど、なんか沈黙がベースで、トークがなんだろう、なんだ、
時々やるみたいな感じで。なんか沈黙してる時間が長すぎるような気がして。ノイズな部分はまぁもちろん生活音を除けばね、意外とこうやっぱり静寂の中にいたいみたいな、
しかもカオスよりもコスモスの中で生きていたいみたいな、部屋がもうカオスになってくるとすぐコスモス化したくなる人とかね。
エントロピー増大しちゃうと嫌だみたいな人と、あとは逆にもうカオスの中で生きてるような人もいるけどね。ゴミ屋敷になりカオスの中で生きてる人もいるし。
意外とノイジー、ノイズ、ノイズどうなんだろうね、ノイズ。意外と大音量で音楽聴く人も減ってきたと思うんですけどね。
まぁ爆音で街を走る人いるけどね。でもあれも一時的なもんですもんね。だから結果として結局カオスよりもコスモスが好かれ、
ノイズよりもサイレンスが好かれ、トークよりも無言が好かれっていうね。そんなこともないかな。トークはトークで嫌いじゃないのかな、みんな。
でも意外とみんなあんま喋んないよね、最近。無駄に雑談する人が減っちゃったっていう。無駄に雑談するやつは嫌われるみたいな。
上司でも何でもご近所さんでも無駄に雑談するやつは嫌われるから、無駄な雑談がなくなっちゃったね。近隣コミュニティからも。
無駄な雑談がないから人間関係が構築できないっていうね。綺麗に静寂でノイジーじゃなくてみんな静かにして、
あんまり喋らずにコミュニケーションもなく、頭の中だけ。結構カオスがなくなっちゃったよね、だからね。昭和の時代とかはもっとカオスだったけどね。
ノイズと沈黙の重要性
いろんなノイズが街に満ちて、いろんなカオスが街に満ちて、いろんなトークがね、どうでもいいトークが街に満ちてたんだけど、あんまりそういうのを見ないよね。
みんなスマホ見ながら黙って歩いてるしね。こんにちはなんて挨拶したら、小学生が防犯ブザー鳴らす時代ですからね。恐ろしい時代に入っちゃいましたね、本当にね。
どうしたらいいんだろう。知らない人に声かけられたら防犯ブザーを鳴らしなさいって言ってね、近所の優しいおばちゃんが声をかけたら防犯ブザー鳴らされるっていう、そういう時代に入っちゃいましたけどね。
防犯ブザーの方がノイズだろうと思うんだけどね。まあどうでもいい話ですね。まあとにかくね、もうちょっとカオスとコスモスのバランスとかさ、両方なければコスモス、カオスがなきゃコスモスもないわけだし、ノイズがなきゃサイレンスもないわけだし、トークがなきゃ沈黙もね、無言も生きてこないわけだから、やっぱりもうちょっとトークしようよとかね。あ、終わっちゃいます。