哲学と道徳の違い
哲学と道徳の違い、
哲学者によるサルトルの批判を聞くと哲学がなんであるかがわかってくる。
彼らからすれば、哲学とは現実がどうあるか、そのありようを記述するものであって、現実がどうあるべきかを扱うものではない。
これは自然科学とも似ていて、例えば物理は自然界の法則を解き明かそうとするものであって、それを踏まえてだからどうしなさい、というところまでは扱わない。
ただ、個人的にはその自然の理を理解した上で、じゃあどう生きていくか、ということを選んでいくものだと思っていて、つまり、最後は個人としての日常につながっている必要がある
というか、そうでないとただ物知りなだけで今日が面白くないということになる。
もちろん本来学問というのはそれ自体が目的になっているものだから、それをやるのが楽しいから、ということもあって、それはもちろんそれでいい、自分でこれをやること自体の楽しみを味わおうとしてその学問をやっている、と自覚できていれば何も問題ない。
でも陥りがちなのは教養が大事などの声に流されてなんか必要そうだから、という理由で手を付け始めるということ
この場合は、それ自体に目的を見出した人の行動ではないので、やってもやってもその時間とそいつ本来の日常とがつながっていない
その場合はそこで学んだことを踏まえてじゃあ今日から明日からどう振舞っていくのか、ということを考えていくわけですが、そこがなければ学問やら哲学やらの時間が、今日の一日の流れと分離していることになる、宙に浮いた時間でしかない。
そしておそらく実存主義もそういうニュアンスを含んでいて、それを哲学者は現実がどうあるべきかを扱うのは道徳でしかないという言い方になったのだと思う。
そういう意味で『だから、実存主義は「生きるための戦略(ストラテジー)」にも見えてくる』ということになる。
でもこれは多分その通りで、それ自体に意味を見出す学者以外は、自分の生活が本体であって、そこをよりよく生きていくものとして哲学があるという捉え方になる。
だから手段であって、いや、だからこれも怪しくて、哲学は手段であっていいという言い方をしてしまうと、つまり、そこから何かを感じ取りそれを生活に応用していくと考えると、そこに触れてる時間自体は面白くないということになっていて、つまり、やっぱりそれ自体が目的であるということは大事で、目的と手段の一体化の感覚、むしろそれ自体が目的であり、その時間の過ごし方に気持ちよさをちゃんと感じていて、でもそれが明日の気持ちよさにも寄与するという構造、こういう形が自然であるはず。