『90分で分かるサルトル』
25/05/16
今日はとりあえず実存主義を見ていく、パッと見た感じヘーゲルの子供という感じで語られてるので、サルトルとキルケゴールあたりをセットでざっと見ていこう。
あとは、consenseに勉強しながら書いていくと、そっちが埋まっていく喜びが動機になるのがいい感じである
『90分でわかるサルトル』
サルトルは哲学者からは批判されていて、実存主義も哲学という感じでもないらしい。
というか、哲学者とか思想を見ていく時はその批判とセットで受け取るのがいいかもしれない
まえがき
「だから、実存主義者でありながら、ブルジョアであることは不可能なのである……。」
なるほど、じゃあブルジョアって何
というか、これを今日45分で読み切ろうとりあえず
父親がいなかったことで自我や超自我がなかったとあるが、超自我ってなんやっけ
フロイトの構造論か、
イド、スーパーエゴ、エゴで語られるやつ、また次回見ていこう
己を殺しているつもりが、他のところで微妙に生き残ってる無意識が現れてきて、しかもそれが不適切なタイミングで出てきてしまってるってことかな、
p20 14歳で小説書いてたんか、
そういえば子供の頃はドラゴンボールの絵描いたりしてた気がする
でも物語は書いたことなかった気がする。
p24 学生の時の環境すごいな
レヴィ=ストロースとかメルロ=ポンティとかと過ごしてた。
p36
「哲学が現実の生活と結びついていない、というのがサルトルの言い分である。アロンがこれに異議を唱えた。ドイツの哲学者フッサールの減少額について聞いたことがないのか、というのである。「いいかい。君が減少額者だたら、このカクテルについて語ることができるし、それがそのまま哲学になるんだ」
え、現象学興味出てきた。
実存主義自体はキルケゴールから生まれた。
キルケゴールの実存主義は一旦見ておこう。
キルケゴールの死後四年後にフッサールが生まれる。
フッサールの現象学はキルケゴールの実存主義との対比でみるとわかりやすい
p41
かくして現象学は、自分の意識や知的活動のプロセスを細かく科学的に吟味しなければならなくなる。そうしたときにのみ、「究極レベルでの経験という現象」や「あるがままの経験」を見つけることができるからである。
その後しばらく自分の意識にしか関心がなくなる。
『嘔吐』ってその流れでできるんか。
この前読もうと思ったがあんまりよくわからなかったが、作品それ自体だけ見ても仕方なかったりしそう。
p44
哲学的小説でありながら、抽象的でもなく、積極を垂れるような調子も見受けられないのである。それでいて、自ずトン主義がなんであるかの深い意味が明かされるのである。
こういわれるともう一回読んでみたい
哲学的小説というジャンルがなんかおもろい。
物語だからこそ語ることのできる哲学というのは確かにありそう
『ペスト』とかか。
そうか、そもそも小説という形である種の答えを出したことも実存主義的感覚か
p46まででいったん終了、後は続きはまた次回
05/17
p47『嘔吐』のクライマックスのところはめっちゃノリノリで書いてそう
メスカリンという幻覚作用のあるやつを服用していたらしい。
p50なんかいいこと書いてる気がするがよく分からない
現象学とサルトルの実存主義における感情の捉え方を見ていくとよさそう
透明性もキーワードか
p52
キュビズムと現象学も関連ありそうか
情動論の本も面白そう、というか、ここで心理学的な分析というか研究がまとまってる
『自我の超越/情動論粗描』
目次を見た感じエゴとか出てくるが、こういうのをただ読んでても意味なくて、これをネタに勝手に頭に浮かんできたものを書いていくほうが個人としては大事
ここで大事なのは、哲学と道徳の違いはなんであるか、という観点。
サルトルの哲学は哲学者からすれば哲学よりも道徳に近いということなんだと思う。
ただ、それが哲学か道徳かはどっちでもいいが、それに触れることで一日を気持ちよく過ごせないことには機能していないと思っているので、そういう意味では行動指針や規範のような位置づけになる。
もしくはそれによって新たな考えが立ち上がってくるところの面白さということになる。
今サルトルが戦争を経てハイデガーを研究していくところで、ハイデガーはヒュームやデカルトみたいに世界を観察する客観的な立場は意味わからんということで否定していく。
ハイデガーの現存在
その中でフッサールの現象学も捨て去る
p61
「現象学はすべての過程から解放された「意識の活動を」明らかにしようとするが、そんなものは人間の認識の根拠にはなりえない。「世界の内にいる」ということが、まず人間に意識される。「存在の意味の問題」にアプローチするためには、この「世界の内にいる」ということを出発点にするほかないというのである。
こういうの見てると本当に哲学も歴史として見ていかないと分からないことが大いにある
ハイデガーによれば、
存在の意味を考えるには、まず自分が世界のうちにいることを自覚することからである
でも世界にいるということはそこでは当然生活があり日常があり、無数のどうでもいいことに煩わされる
じゃあその中でどうすればいいのか
これは、死を意識すれば、その生命の有限性を意識すればいい
でもそこで、じゃあなぜそんなに存在を考えないといけないのか、考えたいのか、その活動や言葉にどんな意味があるのかと。
p62
「はっきりいおう。ハイデガーはあいまいな事柄や概念を説明するために様々な特殊用語をつくりだし、一つひとつの言葉を神秘化してしまっているのである(ハイデガーの意図に反しているかもしれないが......)。」
ハイデガーのことはよく分からないが、個人的には、そこで最後には人生ちゃんと遊ぶという感覚になってくるのだと思う。
そもそもこれ自体がそこに含まれてはいるが、こうして個人の問題意識を掘り下げていく中で出てきたものや獲得したものを日常に還元していき、それが重力場となり周囲に広がり、または巻き込み、さらなるダイナミズムに発展していく。その過程がちゃんと遊んでいるということである。
だからサルトルやハイデガーのことは分からないが、最後には個人の生活に結びついている必要があると思っていて、そういった行動が今日の面白さにも明日の気持ちよさにも活きてくるような取り組み方でないと何かがおかしい。
p64ちょっとここから面白くなってきそう、
ハイデガーは真剣に人生や存在と向き合おうとして、そうじゃないことは「逃避」と言うが、でもその逃避は楽しい時間であり、その過ごし方が幸福につながる、それは古代ギリシャからずっと哲学が探求してきたことである、という流れ。
ハイデガーの言う逃避もそこが文化の起源となることもあり、結局、本当な重要な問題だけを考えようとすることは、ときには現実をおろそかにすることであり、デカルトのように思考を優位にし過ぎてますよね、と著者が語っている。
それをサルトルもよくわかっていて、だからこそそのハイデガーの深い考察を現実の行動にまで落とし込もうとした。
そこでキルケゴールの実存主義に戻りつつ、のちに『存在と無』を書くことになる。
次回はこの話から。
05/18
p69 『存在と無』について
「この表題は、人間の意識(欠如状態、無)と物事(存在)との違いを示している。この意識は物質世界の外にあり、機械論的決定論の外にある、つまり、自由である。
となると、ハイデガーの「存在」に対して、サルトルの「存在」は人間の意識的な意味が強い。
ハイデガーは存在の本性、それ自体というニュアンス。
このサルトルの存在は二つあって、
この二つをサルトルは、「即自存在(自分自身のもとにある存在)」と「対自存在(自分自身と向いあっている存在)」として区別する。(p70)
簡単に言えば即自は意識のない、ただあるだけの存在。対自は人間の意識で、因果律から自由な存在
で、この意識は純粋に何かを認識するとか、つまり、知識とかそういったものではなく、何かを選択し決断するものである。
つまり、それによって自分自身が想像されていく、そんな存在としての意識
だから、何か対象を持たないといけない、という意味で意識を無としている?
p78
うわ、無意識出てきた、サルトルの「実存は本質に先立つ」は心理学の無意識と矛盾するらしい。
ここで無意識の話出てきたのはおもろい。またつながってきた。
無意識との対比で実存を見ていけるのはありがたい
「私がなんであるかと言えば、「無」つまり「存在を欠いているもの」である。私が求めるのは、私を取り巻く存在に他ならない。これこそ、私にかけているものだから......。
よく分からんけど、おそらく、心理学的な無意識は、それによって、行動が決まってくると説明できるものだが、
サルトルの実存主義的には無意識や決定論ではなく、意識によって自由に選択し、それによって無から存在になるという感じ。
p89
サルトルによる近代哲学の三分類
①デカルト、ロックの哲学
②カント、ヘーゲルの哲学
③マルクス主義
これで見ていくのも分かりやすそう
後半、政治に参画していってマルクスが~とかなってきたくだりで、飽きてきた。
サルトルの晩年の話はまた別の機会にやろう。
『90分でわかるサルトル』360分かかった。