禅の歴史
#2025年を探さないで
今枝愛真『禅宗の歴史』第1章「奈良平安時代 禅宗の伝来」
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https://ja.wikipedia.org/wiki/禅宗#中国の禅の歴史
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京極夏彦『鉄鼠の檻』 文庫版 第6章 pp.761-782
そして、唐突に講義レクチャーは始まった。
「これから話すのは、禅の豪く上っ面だけの流れです。深い部分までは簡単に語れるものではない。いや簡単でなくても語れない。言葉で語れないのが禅です。だから僕は禅に就いて話すのではない。禅の流れに就いて話すのだと云うことを了解して貰いたいですね。さて、話すまでもないところから始めるしかない。禅のそもそもは——」
「達磨さんでしょ?老師もそう云っていた」
京極堂は片眉を釣り上げた。
〈禅の始まり〉
「馬鹿なことを云っちゃいけない。禅のそもそもはお釈迦様だよ。仏教なんだから当然だろう」
「はあ?そこまで遡りますか?」
「勿論だよ。お釋迦(釈迦)様が晩年、霊鷲山と云う山の頂上で説法をなさっていた時のことだ。その日にかぎってお釈迦様は何も仰らなかった。そして黙って近くに咲いていた金波羅華と云う花を拈り示した。弟子の殆どは何が何だか解らなかった訳だけれども、ただひとり摩訶迦葉(まかしょう)と云う弟子がそのお姿を見てにっこりと微笑んだ。それを見て、お釈迦様はこう云った。
我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付属す」
つまり言葉で云えぬ、文字で書けぬ教えを、全部、摩訶迦葉まかしょうに伝えたと云う意味だね。これを拈華微笑という。これが禅の始まりさ。そうですね?」
〈中国禅の開祖、達磨〉
「こうして摩訶迦葉はお釋迦様から衣鉢、衣と鉢だね。これを受け継いだ。この摩訶迦葉から、その言葉にできない教え——衣鉢は弟子の阿南に、更にその弟子にと二十七回受け継がれ、二十八番目、千年近く経って達磨(達磨)に辿り着くのだよ。達磨は印度の禅では二十八祖だ。その後達磨は中国に渡り、禅を伝えた。つまり中国では達磨は伝禅者、中国禅にとっては開祖だ」
「何だ。矢っ張り元はお釈迦様なんだ——」
「——達磨さんが考えた訳でもないんですな」
「しかし菩提達磨がある意味での禅の始祖と云うのも慥かだ。今に続く禅の基本は達磨で完成した。釈迦から受け継いだ『不良文字ふりょうもんじ』『教外別伝きょうげべつでん』に加えて『直指人心じきしにんしん』『見性成仏けんしょうじょうぶつ』、所謂『禅の四聖句』は達磨の唱えたものと云われている——まあ、本当は唐の時代に造られたものらしいから、達磨が唱えたと云うのは眉唾ではあるけれど——」
「言葉自体は後世の作であろうとも、それが菩提達磨の心であったのでしょう。以心伝心、伝えられた心を後世の者が書き記したのです」
常信はそう云った。
「そうかもしれませんね。いずれにしろこの時代の禅は師資相承ししそうしょうと云う形で受け嗣がれた。つまりひとりの師匠から一人の弟子に杯から杯に水を移すように、衣鉢——法は嗣ながれた訳だ。その数達磨から数えて六回。この間、禅は弾圧され続けた。そうでしたね?」
「その時代中国では仏教自体が弾圧されておったようだ」
常信は言葉短に答えた。
〈六祖、神秀と慧能〉
「そうですね。しかし六番目、つまり六祖が問題なんです。ここで禅は二つに割れた」
「一子相伝で跡目争いでも?」
「何だか変な喩えだがその通り、五祖弘忍ぐにんには沢山の弟子がいたが、中でも優秀だったのが大通神秀だいつうじんしゆうと云う人で、この人は今で云う秀才選良エリートだね。この神秀(神秀)こそ六祖となる——筈だったのだが、ここで思わぬ伏兵にその座を奪われてしまう。それが大観慧能たいかんえのうだね」
「何か抗争があったので?」
「ないですよ。慧能と云うのは樵きこりで、文字もろくに読めぬような無学な者だった。七百人からいる弘忍の弟子の中では一番最下層の、米搗き小僧だった訳です。それがどうした訳か、あっさり法を嗣いでしまった」
〈神秀と北宗、慧能と南宗〉
「しかしそれでは主流派が収まる訳もなく、慧能は衣鉢を嗣いで南へ逃げる訳です。これに就いては、実際は逃げた訳ではないようなのだけれど、解り易いからそうしておこう」
「慧能がそもそも広東省新州出身だったと云うこともあるかもしれないね。広東辺りは当時文化果つる辺境だったのだが、慧能はそこに根を張り、地方中心の布教を開始した。一方神秀は都——長安や洛陽を中心に活動し、一時は絶大な勢力を誇ったが——これは絶えてしまった。慧能の禅を南宗禅、神秀の禅を北宗禅と云う」
「南北に別れてしまったんですね?」
「しかし北宗と自称していた訳ではないでしょう?」
常信が云った。
「そうですね。北というのは慧能から見て北なのであって、神秀には自分が北にいるという認識はなかったでしょうし、先ず己が正統と信ずる者には南も北もないですからね。しかし北宗は絶えた。これは教義云云の問題と云うよりも、安史の乱などによる社会情勢の激変で支持層を失ったことが大きな原因だったのではないでしょうか。漸悟ぜんごの北宗禅に対して南宗禅は頓悟とんご、貴族中心の北に対して農民中心の南——こうした構図は南宗が生き残ったことで勝敗を決します。これは結果的に中国仏教の教学仏教から実践仏教への展開を促した」
〈漸悟の北宗禅、頓悟の南宗禅〉
「なる程、北と南では支持層の基盤に差があった訳ですね。貴族や上流階級中心と農民や下層階級中心と云う。都会型と地方型と云うか。中央と周辺と云うか——中央癒着型は慥かに政変に弱いなあ。それで北は衰えたと——しかし、教義と云うか修行と云うか。それも南北で違うのですか」
「そうだね。北宗禅は修行を続け、ゆっくりと段段に悟って行く。南宗禅は悟る時は一発で悟る」
「修行しないでも?」
「それはない。南宗の悟り——頓悟と云うのは、段段に、あるいは徐徐に悟りの段階に到る北宗と対比して『すぐに悟る』と云うような印象で受け取られがちだが、、そもそも頓悟の『頓』は時間的経過を表す言葉ではないし、そう、寧ろ徹底した現実肯定に根ざした脱落した悟りと云うか——」
「だが頓悟を最初に説いたのは道正どうしょう(竺道生)ではありませんでしたか。ならば」
常信が私などには解らない次元で異を唱え、京極堂はそれに答えた
「——そうですね。『二諦論にたいろん』でしたか。『仏性當有論ぶっしょうとううろん』(仏性当有論)でしたか——そうすると直ちに悟ると云った解釈でも差し支えないのですか。いずれ頓悟は漸悟より高次の宗教的立場との見方が浸透した——」
「ははあ。教義も南の丸勝ちだった訳だ」
〈七祖、青原と南嶽〉
「そう。ただ、それで禅宗の流れが一本化したかというとそんなことはない。この六祖慧能にはまた幾人か弟子がいて、それでその中からすんなりと七祖が選ばれたかと云うと、そこが問題で——そうですね。和尚様」
「曹洞では七祖は靑原行思せいげんぎょうし(青原行思)となっております。これに就いては六祖は誰かと云った論議も含め、若干の文献なども残っておりますが——」
「北宗の普寂ふじゃく禅師が七祖を名乗っていたこともあり、かなりの混乱があるようですね。南宗の神會じんえが異を唱え、我こそ七祖と云ったとか。『中華傳心地禪門師資承襲圖』には普寂と神會が両方七祖として書かれていますし」
「善く——ご存知で——そんなこと拙僧も知らないこと」
「書いてあるものを読むだけなら、字を知っていれば誰にでもできます」
「僕は本屋ですから驚かれるまでもない。しかし北宗禅が衰退して後に、南宗の中でも反神會派の中に七祖は青原なり——とする動きが出てきたことは事実です。そして更にその後、もう一人の高弟、南嶽懷讓なんがくえじょう(南嶽懐譲)をも七祖として推す一派まで現れた。しかし考えてみればこれはどちらでもいいことで、結局慧能の弟子のうち尤も後の世に影響を与えた者が青原と南嶽であったと云うだけのことに外なりません。つまりこの両名を七祖とするか、七祖はナシと見るか、それはいずれも同じこと。ここで南宗禅はまた二つに割れた訳です」
「その——せいげんとなんがくに?」
如何にも漢字を知らぬと云う発音をした。
「そう、図らずも南宗も青原系と南嶽系に分かれてしまった」
〈南嶽、潙仰宗、臨済宗〉
「南嶽系からは馬祖道一ばそどういつ(馬祖道一)、百丈慧海ひゃくじょうえかい(百丈懐海)などの名僧が沢山出ている。そしてそれは更に二筋に別れ、一筋は潙仰宗いぎょうしゅう、そしてもう一筋は臨済義玄りんざいぎげんの登場により臨済宗として結実するのです」
「ああ、やっと聞いた名が出て来ました」
〈青原、雲門宗、方眼宗、曹洞宗〉
「一方青原系は——曹洞宗にしてみればこちらが本流と云う意見もあるでしょうが——雲門宗、方眼宗という二宗を出し、更に洞山良价とうざんりょうかい、曹山本寂そうざんほんじゃくの法系を承ける形で誕生したのが曹山の曹、洞山の洞を取った曹洞宗です」
「なる程!それでこちらは青原七祖と仰ったのですね。曹洞宗は青原系な訳だ」
〈五家七宗、潙仰、雲門、法眼、曹洞、臨済、黄龍、楊岐〉
「まあそうでしょう。こうして中国禅、特に南宗は唐の時代には五家七宗と云われるまでになり、中国仏教界を席巻します」
しばらく黙っていた敦子が発言した。
「五家というのは潙仰、臨済、雲門、法眼、曹洞のことでしょう?七派と云うのは何なの?」
「その五つのうち、臨済宗が更に黄龍おうりょう派、楊岐ようぎ派に別れたのだね。この二派を加えて七つになる。臨、雲、潙、曹、法は五緯なり、楊岐黄龍の五派に加わるが、なお太陽太陰の七曜を成すが如し——」
後半は何かからの引用だろうが、矢っ張り解りはしない。
〈日本の禅、臨済と栄西〉
京極堂はそこで居住まいを正した。
「さて、これで漸く本朝の禅に移れる。日本に最初に禅を持って来たのは一般には天台僧だった榮西禅師(栄西禅師)だ——と云われる。彼は二度入宋し、天台山で臨済宗黄龍派の禅を学び、持ち帰った。しかしこれはすぐに根づいた訳ではないんですね。天台宗からの排撃を受け、中中に苦労している。ただ徹底的に幕府よりの態度を貫き、他宗派との併存を目指したが故に絶えることはなかったのだね。その内容も真言や天台に遠慮した兼修禅だった。とは云うものの禅は禅。栄西禅師の評価が分かれるのは権勢への妥協的な態度故だが、それなくして今日の禅はなかった可能性もある訳だから、評価はするべきです」
〈能忍と日本達磨宗〉
「しかし同じ時期栄西と違った形で興禅活動をしていた人がいる大日房能忍だいにちぼうのうにんです」
「一般的な知名度は高いのか低いのか僕は知らない。能忍に就いては正確な記述も少ないんですね。しかし日蓮上人などは浄土宗の法然と能忍を並び称して誹謗しているから、それなりの影響力があった筈です」
「能忍は興禅活動をしたが、独学の人と云われていて誰に師事した訳でもないんだね。しかし嗣法を重視する禅宗だから、誰かの法系に属する必要がある。そこで宋に使いを出して法を嗣がせてくれと頼んだ」
「そんないい加減なこと——」
「それがあったのだよ。能忍は結局日本に居乍らにして臨済宗楊岐派の拙庵徳光せつたんとくこうに嗣法を許され、珍相と達磨像、禅籍を与えられた」
「ああ!それはあそこにあった『潙山警策いざんきょうさく』を貰ったとか出版したとか云う——」
「そうそう。善く覚えていたね。そうだ、その通りだよ——そして能忍は『日本達磨宗』という一宗を興した」
「聞いたことないですねえ。覚え易い名だが」
「それはそうだろう。これで黄竜楊岐両派共に本邦に伝わったことは伝わった。しかし栄西は兎も角、能忍は殺されてしまった——のですよね?」
常信は何も答えなかった。
「いずれにしても栄西も能忍も弾圧を受けたことは間違いなく、その裏に既成教団がいたことも間違いない。能忍の達磨宗は宣揚停止せんようちょうじの処分を受けてしまう。能忍の弟子達は山野に下り禅を広め、やがて道元の門下に入り永平教団——曹洞宗を形成する重要な役割を担う、のでしたね」
常信は覇気がなかった。
「しかし栄西は先程も云った通り権勢とつかず離れずの距離を保って興禅を続けます。拠点を鎌倉に移し、幕府との関係もより密接になる。これが後後役に立った。栄西は京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺を建立する。そして——」
〈道元と曹洞〉
「——やっと道元の登場ですね」
やっと道元だ——私もそう思った。
「道元は天台僧として延暦寺、園城寺両方で学んだ後——」
延暦寺——山門と、園城寺——寺門に就いては先日聞いたばかりである。鼠の坊主のくだりだった。
「——更に建仁寺に入り、その後、栄西の門弟明全と共に入宋、求道の末に天童如浄てんどうにょじょに邂逅して嗣法、帰朝します。如浄は曹洞宗でした。こうしてほぼ初めて臨済以外の伝禅が叶った訳です。しかし道元は酷い弾圧を受ける。勿論叡山からです。そして建仁寺の僧とも袂を分かつ、それはそうです。道元の嗣いだのは曹洞宗。遥か六祖慧能まで遡らなければ臨済宗とは合流しないのですから——」
「叢林の堕落に失望したとも云われております」
常信は矢張り力なく云った。
京極堂はなる程と頷きつつも問うた。
「しかし、例えば経行きんひんひとつ取っても曹洞と臨済では作法が違うのでしょう?」
「それは——そうだが」
「きんひんとは?」
「まあ簡単に云えば歩き方です。叉手当胸しゃしゅとうきょうに変わりはないが、曹洞宗では一足半歩、つまり一呼吸の間に半歩歩く。臨済では颯颯と早足で歩く。曹洞の牛歩、臨済の虎走こばしりなどと云われる」
「それで、それだけ違っていて一緒に修行ができるとは僕には思えない。兎に角、道元は建仁寺を出て白山系天台宗や達磨宗の残党などの助力を得、やがて越前に永平寺を開く訳ですが——」
〈臨済と五山〉
「一方、鎌倉を中心に権勢と結びついた臨済宗の方は、続々と寺院を建立し、中国より無學祖元むがくそげん(無学祖元)などの僧を召喚して、その宗勢は益々興隆して行った訳です。その結果が五山寺院であり五山派教団ですね。最初に北条貞時が浄智寺を五山に列し、以下建長寺円覚寺寿福寺と次々と五山の称号が与えられ、鎌倉五山が定められる。後に京都五山も定められた。これは中国南宋の真似です。中国の五山は印度の五精舎、天竺五山に倣ったとされるが、これはこじつけの感がある」
「そう——ですかな」
常信は頸をかくりと傾けた。
「さて、正しいかどうかは解りませんが、僕の私見では中国南宋の五山は風水です。漢族の文化を正当化し、強化するために施された魔法みたいなものですね。後づけで仏教的根拠を付加するなら仏典に求めるよりないし、仏典は印度のものだからそうなっただけで、印度に倣った訳ではないと思います。しかし我が国の五山——これは中国に倣ったものだ」
「五山とは、その、山五つのこと——ではないことくらい知っていますが、その」
「ははは、これは数ではなく称号だね。要するに寺格、偉いお寺の肩書きですね。五山の第一と云えば一番偉い。第五でも普通の寺よりずっと偉い。この場合は偉いと云う表現でいいのだね。南北朝から室町へ移行する中で、その五山寺院を頂点とする寺格統制は着着と進み、数度の序列や選定の変更を経た後、夢窗󠄀疎石むそうそせき(夢窓疎石)一門が頭角を現すのに呼応して、京都の南禅寺が『五山の上』と云うとんでもなく偉いお寺になったお陰で京都の五山優位と云う形で落ち着いた」
「そこで位階制ヒエラルキーがほぼ整ったと?」
〈林下、曹洞宗と応燈関〉
「ほぼね。しかし当然その流れに与しなかった宗派はある。それらの宗派は『五山』に対して『林下りんげ』と呼ばれた。曹洞宗と、臨済宗系では大徳寺派と妙心寺派——つまり先程出て来た応燈関の一流だね」
「ああ、やっと出て来たか」
(注: 『鉄鼠の檻』文庫版 第6章 p.759 「応燈関とはね。大応国師南浦紹明だいおうこくしなんぼじょうみょう、大燈国師宗峰妙超だいとうこくししゅうほうみょうちょう、無相大師関山慧玄むそうたいしかんざんえげんの応と燈と関をとった臨済宗の法系だね」)
ほっとしたようだったが今度は敦子が問うた。
「大徳寺って、でも——寺格は高いのじゃなかったかしら」
「高いね。この大徳寺の宗峰——応燈関の燈は夢窓と並び立つほどの器だった。そこに目をつけたのが、ほら、例の後醍醐帝だ——」
「——後醍醐帝はこの宗峰に興味を示して、例によって建武の新政の時に大徳寺に南禅寺と同じ寺格を与えちゃったんだね。多分、大した興味もなかった癖にね。それでいて後醍醐は夢窓に帰依したりしている」
「二股ですな」
「まあね。夢窓はどんどん五山内の勢力を拡大して行く。宗峰は夢窓のライバルだから夢窓の一大勢力とは馴染み難かった。それに室町になると幕府は十方住持制じっぽうじゅうじせいと云うのを布いた。五山寺院は法系と関係なく幕府に任じられた者が住持になることになった訳だ。大徳寺は昔乍の師資相承を守っていたから、結果的に五山から離れるよりなかったのだね。こうして林下系——応燈関や曹洞宗は中央を離れて地方に根を張ることになる」
「はあ、曹洞宗も地方基盤なんですか?ああ、そもそも越前とかでしたか?永平寺ってどこにあるんですか?」
「福井県」
「——そうですよね。京都や鎌倉と離れている。道元さんと云うのはさっきの——誰でしたっけ?ええと、中国の、六番目の——」
「慧能かな?」
「そう。その人に似ちゃいませんか?」
「中央との癒着を嫌い地方に逃れたところが似ていると云うのかな?なる程そう云えばそうだ。臨済将軍、曹洞土民とも云われる。師と出遭い頓悟して嗣法に到る場面も善く似ている」
「まあ僕自身は道元と慧能は決定的に違うと思うけれど——どうです?常信様」
「慥かに、比せらるることもある」
〈その後の五山と林下〉
「つまり地方基盤の教団は政変があった時にも生き残り易いんでしょう?」
「日本は中国みたいな劇的な政変はないからなあ」
「あらら、そうですか。それじゃあ、その五山はその後も衰えることなく、なくなりもせずにずっと——」
「いやいやそうでもない。五山と云うのは諸寺から十刹じっせつ、そして五山へと坊さんが段段に出世出来るという構造を持っている訳で、これは企業と同じだ。昇り詰めれば居座るし、安定すれば堕落する。一度堕ちると中中戻るのは難しい」
「ああ解ります解ります」
「社長辞めても会長になったり顧問になったりして天辺に居座る爺さんは多いですからね。風通しが悪くなると堕落しますな」
「まあ、知らないが、五山寺院は権勢の庇護の下、国の文化学芸の中心的機能を果たしつつも、最終的には文化人の集うサロンの如くなり果てた。しかし林下の諸派の方は、その間それこそ艱難辛苦、苦心惨憺して興禅活動を続けている。どっちにしても五山の隆盛期は禅宗が政権と最も強く結びついた時期であり、当然禅宗が最も反映した時期でもあることには違いないのだけれどもね。一時期には二十四もの禅流があった程だ」
「その後戦国時代になると武将は挙って禅僧と親交を持ったが、林下に比べ五山系の活躍はやや精彩を欠く。政権基盤の安定した時にこそ権勢を揮える仕組みだから仕様がないね。林下の宗門は鍛えられた分根強く生き残った」
〈林下の曹洞宗〉
「矢っ張り政変に強いんだ。曹洞宗は地方の時代に食い込んで勢力拡大した訳でしょう。大成功だ」
「そんな単純なものでもないし、教団は大きければいいと云うものでもないが——永平教団が戦国時代に拡大したのは事実だ。道元の死後、教団拡大の是非に就いては曹洞も二派に割れたのでしたか?」
常信は初めて表情を曇らせ、異を唱えた。
「割れたと云う表現は戴けないです。道元禅師の孤高な禅風を慕う者、民衆に広くその教えを広めようと考える者に——」
「割れたんじゃないですか」「一枚岩じゃなくなった訳でしょう。保守革新ですよね」
「保守と革新——ですかな?」
常信は困ったような顔をした。
「君が云うところの革新派は瑩山紹瑾けいざんじょうきんになるのかな?瑩山禅師は組織作りの才能に長けていたようですね。布教対象を地方武士や農民中心に絞り込んで展開するという作戦も瑩山禅師の尽力に因るところが大きいのでしょう?」
「しかし住職輪住制の導入などで教団の門派分裂を防いだのも瑩山禅師です。だから瑩山禅師は教団拡大の功労者でこそあり、保守派に対する革新派などと呼ぶのは——矢張り戴けないです」
常信は納得の行かぬと云う雰囲気だった。今までは兎も角、これは自分の信仰する宗派の話であるから当然だろう。京極堂はあっさり折れた。
「解りました。仰る通りです。慥かに曹洞宗は表面上、永平寺派と総持寺派などに分かれていない。両祖両本山でしかも寺格は永平寺が上位と収まりがいいですし、際立った抗争もない」
常信は頷いた。
「希玄道元は曹洞宗の——ご本人はそうお呼びにはならなかったが——宗旨修行の基盤を造ったお方。瑩山紹瑾は教団門徒組織の基盤を造ったお方。いずれが欠けても我が宗は成り立ちません。ひとりでも多くの衆生を救済することが宗教の勤めであるならば、幾ら貴い教えであろうとも、ただ山に籠もっておったのではどうにもなりません。これを『只管打坐しかんたざ』を以て正道とする道元の教えに反すると仰る向きも中にはあるが、拙僧はそうは思わない。これだけ多くの民衆の支持を得て、全国各地に多くの道場寺院ができたのも、道元禅師の教えが素晴らしいもので、尚且それが正しく伝えられたからです」
「なる程善く解りました。慥か——」
(注: ここから節々で、京極堂と常信の間でストーリーに関わるやりとりが交わされるが、その部分については省略する 『鉄鼠の檻』文庫版 pp.779-780)
常信は視線を畳に落した。
〈江戸時代の禅〉
「了解しました。さて、話を戻そう。ここまで来れば後は簡単だ。まあ林下の臨済宗には幻住派の活動や地方の有力寺院の台頭など、見逃してはならない事項が幾つか残ってはいるが、弱体化しつつ権威だけは保持し続けた臨済五山系寺院と地方で勢力を拡大した曹洞宗——という構図のまま、時代は江戸時代へと傾れ込む。そこに隠元隆琦いんげんりゅうきが黄檗宗おうばくしゅうを持って来た。これが刺激になって禅は活性化した。何しろ隠元と云えば当時は有名な高僧だった訳で、それがやって来たのだからね。『隠元語録』などや善く読まれていた訳でしょう」
「そのようです」
「隠元の来日に就いては内乱を避けての亡命染みたところもあったし、それに受け入れる日本側にもひと悶着あったらしいが、これはある意味で画期的だったことに違いはない。日本の禅は古い時代に種を輸入して日本の土壌が育み開花結実したものだが、隠元の禅は中国の土壌で育ったものだ。同じ種でも育成環境が違えば生る実も違う。特に隠元の禅風は禅に浄土的要素を組み込んだ斬新的な宗旨だった。曹洞宗も影響を受けたのでしょう?」
「具体的にはどうとは云えませんが」
「そうですか。まあ、影響を受けたにしろ反発したにしろ、大きな刺激になったことは事実でしょう。それは臨済系に就いても云えることで、例えばこの黄檗の念仏禅に半ば反発するように衰えていた臨済の本流——応燈関の一流が徐徐に息を吹き返す訳です。そして江戸も半ばに差し掛かって、この応燈関の流れを汲む日本臨済宗中興の功労者、白隠慧鶴はくいんえかくが登場する。白隠は盤珪永琢ばんけいえいたくなどの痛烈な既成禅宗教団への批判を逆に批判的に取り込んで、旧来の公案禅を再生した。これは広く庶民にも——真意が伝わったか否かは別にして——親しまれた訳です。公案禅の日本的展開は禅の浸透に大きく貢献しました」
それについては異存はないですと常信は云った。
「こうして臨済曹洞黄檗、現在の日本の禅宗はこの時代に概ね原形を整えた——」
京極堂は意味ありげに常信を見た。
「さて、常信和尚の的確な注釈を戴きつつ、非常に大雑把に、且つ上面を滑るように、禅の歴史を語った訳ですが——少し役に立ったかな?」
〈その後のストーリーについて〉
(注: この直後、この物語のシチュエーションとして重要な謎解きがある。登場する禅僧の法系を解く 『鉄鼠の檻』文庫版 pp.783-784 )
(ネタバレになるので引用しないけど)
(
(注: マーラ『鉄鼠の檻』文庫版 第6章 p.795 )
このようにして悪魔マーラは相手の皮を一枚ずつ剥いで行く。そして対峙する者は生身を晒すことになる。
(注: ここで瞑想と坐禅の違い、それと悟りと魔境の話について講義が差し挟まれる 『鉄鼠の檻』文庫版 第6章 pp.797-802 )
(これは写経しておきたい気がする。予定は未定)
(タイトルをつけるとすると)
坐禅、大悟、魔境について
(注: この長い長い禅宗の歴史のレクチャーが始まったところから、もうすでにそれは始まっているのだが、この引用の部分のあとから、本格的に京極堂の憑物落しが始まる 『鉄鼠の檻』文庫版 p.813 )
「伺いましょう」
声が——違う。
憑物落しが始まっている。
——その大鼠か?
京極堂は常信から鉄鼠を落とそうとしているのか。