坐禅、大悟、魔境について
#2025年を探さないで
from 禅の歴史#69312fad0000000000a9ba78
京極夏彦『鉄鼠の檻』 文庫版 第6章 pp.pp.797-802
「祐賢様と拙僧とは師が違う。つまり法系こそ異なるのですが、曹洞宗は臨済宗程大きく法系が別れている訳ではないです。ですから、拙僧は祐賢様の禅風に触れて大層感心致しました。しかし——」
常信の表情は不可解な壊れ方をした。
「——例えばそれは——それだけだったのです」
京極堂は我が意を得たりと云う顔をした。
「足りていた?」
「そう、足りていらしたのです。拙僧はとてもその境涯には及ばなかった。だから、ただ座り、修行致しました。しかし——駄目だった」
「駄目とは?」
益田(注: 国家警察神奈川県本部捜査一課 刑事)が興味を持った。
「座ってて駄目と云うのは、例えばそのむらむらと雑念が湧いて来るとか。食欲が湧いて来るとか、例えばそう云うことでもあるんですか?」
「そんなことも——ないことはないでしょうが、拙僧の云うそれはそう云う意味ではない。例えば、坐禅を長く続けていると慥かに眠くなって来ることがございます。それは昏沈こんじんと云う。そう云う場合は警策で打たれます」
「ああ、叩かれるんだ。寝ちゃいけないのですね」
「勿論です。しかし起きていて——つまり世俗のことに思いを巡らせていてもそれは駄目なのです。腹が減ったとか、昨日嫌なことがあったとか——」
「それは内面に目を向ける。つまりその——瞑想するのとは違うのですか?」
敦子が尋ねた。
「瞑想と——坐禅はまるで違うものだと心得ております。尤も、拙僧は瞑想の何たるかを詳しくは知らぬのですが——」
「瞑想とは目を瞑り、目前の世界と己を遮断して想像を巡らせ、静かなる安定を得ることです」
京極堂は字引の能書きのようなことを云った。
「そうですか。それなら違う。想像など巡らせてはならぬ。安定することもない。目も瞑りません。調息と云って呼吸を整えることは致しますから、それに因って身体は安定します。しかしそれはあくまで躰の安定。精神の安定とか不安定とか云うものは無関係です。またこれは精神修養でも自己鍛錬でもない。大きな意味では修養であり鍛錬なのでしょうが、己を鍛えると云うような狭い境地でいるうちは未だ到りません」
「善く解らないですね」
「解りませんか」
「仕方ありまえんよ。禅を言葉で伝えることはできないのです。常信和尚」
京極堂がそう云うと常信は寂しそうな顔をした。
「おお。如何にも——そうでありました。然さもあらん、拙僧など二十何年座り続けて未だ悟れない。そう、悟れないのです」
「そんなに難しいもんなんですかね。悟ると云うのは?でも先程聞いた話では、慥か、いま日本に伝わっている禅はトンゴ(頓悟)とか。慥か一発で悟るとか」
「そう——悟ること自体は難しいことではない筈なのです。否、只管ひたすらに座って居りますと、ふ、と見えることはある」
「何がです?」
「そう、世界と己が一体になったと云いますか——先程も云いましたが、坐禅中は神経が研ぎ澄まされて参ります。普段見えぬものが見えて来る。聞こえる筈のない音——例えば禅堂の外の枯れ葉が一枚枝から外れる時の音——が聞こえたりする」
「それは——錯覚ですか?それとも」
敦子はそこで兄を気にして言葉を切った。
多分敦子はその後、それとも超能力ですか、と続けたかったのだ。京極堂はその言葉が大嫌いだから遠慮したのだろう。
「さて。その時は錯覚だとは思いません。それにそう云うことが続くと、例えば普段見ている景色が矢鱈に新鮮に見えて来たりする。世界が新しくなったような、清浄な気持ちになれる。それこそ仏境界ぶつきょうがいかと云う気になる」
「それは矢張り悟りの境地とか云う奴でしょう。僕なんかどこに行ったってそんな新鮮な気持ちになんかなれないですから」
「違うのです。それこそが魔境なのです」
「魔境?魔境と云うのは悪魔の魔?」
「そう正に悪魔の境涯なのです」
「そんな清浄な境地がですか?」
「そう。それは単にそう云う気分でいるだけのことで、修行などせずとも善くあること。悟ったような気分にさせるだけのただの魔境です。魔境は『楞厳経りょうごんきょう』(楞嚴経、首楞厳経)に依ればその種類数十に及ぶ。そんなものは悟りでも何でもないのだ——そうです」
「そうかなあ。悪いことじゃないと思いますがね」
京極堂が注釈を加えた。
「益田君。例えば朝起きて、ああいい気分だと思う日はあるだろう。それから仮令たとえつまらないことでも良いことがあった日にはマシな気になる。それは自分と関係なく、例えば気候が良いとか、体調が良いとか、あるいは運が良いとか、そう云う外的要因で齎もたらされる気分だ。しかし人はそれを内的結果として捉え、ああ何て素晴らしいと思う。悪いことじゃないが、それは己の人徳のお陰、日頃の行いが良いお陰だと思ったんじゃ増長してしまう。内や外があるうちは禅とは無関係なんだね」
「天気が良くていい気分と変わらないんですか?」
「変わらないんだよ。いや、更に質が悪いのは、修行者が見るそれは偶偶たまたま訪れるそれと違って、能動的に顕現けんげんするものだからね。修行の結果と勘違いし易い。しかもそれはある日突然顕れる。正に頓悟したような気になる。物凄い理屈が浮かぶ。目の前に仏様が現れて教えを説く。酷いのになると宇宙の声が聞こえたり、超越者と一体になったような神秘的陶酔感を持つ。この手の奴は皆妄想だ。幻覚なのだ」
「幻覚ですか。仏さんが見えても?」
「そんなものは幻だよ。一部の新興宗教なんかで、修行中に仏様を感得したとか解脱したとか云って騒いでる連中がいるが、そんなモノを見て喜んでいるような者は救い難い大馬鹿なんだよ。益田君」
「大馬鹿——ですか」
「大馬鹿だ。そんなモノは皆、物理的な、或いは生理学的な説明のつけられる、いわゆる生理現象に過ぎない。科学的思考を以て解決できる以上、それは神秘ではあり得ないし、悟りとは神秘的なものですらない。だから禅では、そう云う状態になった時jは、それを当たり前のこととして受け流せと、そう云われる。そうですよね?和尚様」
「そう——なのです。しかし——」
常信は動揺している。
「——益田様が仰ったように、頓悟禅では本当の悟りも突然に悟る。豁然かつぜん大悟致すのです。正直に申しますと——拙僧は未だ大悟を知らぬ駄目な修行僧なのです。いいえ、何も仰らないで戴きたい。修証一等しゅうしょういっとうただ座ることこそが悟りであるのなら、今のような言葉は出よう筈もない。それは承知のうえです。これから語りますのは禅僧として語るのではございません。今まで偉そうに禅匠のような口を利いて参りましたが、それもこれも単なる知識。本証より出づる言葉ではございませんでした」
常信は何かに屈服したらしい。
(注: このあと京極堂の常信和尚に対する、憑物落しが続く)
https://ja.wikipedia.org/wiki/澤木興道
https://gyazo.com/7540a59f86f284cca70b3413d0ae0afa