東京大学の画工
藏田愛子(東京大学総合研究博物館特任研究員
特任研究員 藏田 愛子 (文化資源学、日本近代美術)
東京大学の画工――近澤勝美
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東京帝国大学が刊行した大学紀要に、論文筆者である大学研究者だけでなく、画工、つまり学術上の研究対象を専門に描く人物が深く関与していたことはあまり知られていない。特別展示『医家の風貌』(MODULE)に展示されている『帝国大学紀要医科』第四冊(1900年/東京大学総合研究博物館所蔵)の図版の片隅には、「K. Tikasawa del.」や「Lith. Y. Koshiba」の文字が小さくみえる。これによりこの図版はK. Tikasawaが描いた原画をもとに、小柴英創業の印刷会社で石版にされたものであることがわかる。私はK. Tikasawaとは近澤勝美のことだろうと考えている。近澤は静岡の士族出身で、東京医学校や東京大学に勤務し、『美術応用解剖学』(1892年)や『アヂソン氏皮膚病図』(1897年)等の医学分野の図を専門に手がけた人物であった。1874(明治7)年5月の東京医学校雇入に関する伺文書には、外科手術につき截断の形状を「生冩」し、薬物学の講義や薬局で扱う草花を「眞模」する要員として近澤を雇い入れたい旨が記されている(「職務進退」東京大学文書館所蔵)。図版にあらわされた腫瘍の断面や拡大した組織の描写は細密を極める。大学に奉職した画工が残した確かな仕事の痕跡をみることができる。
大野雲外と模様集
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考古学者の大野延太郎(1863-1938年)は東大人類学教室にて学術標本を専門に描く画工でもあった。号は雲外。1893年から1904年頃の『東京人類学会雑誌』には、大野のサイン入りの図版をいくつも見ることができる。大野の重要な仕事の一つに、1895年頃に開始された「模様集」の制作があげられる。1916年刊行の『人種紋様(先住民の部)』(芸艸堂蔵版/多色木版刷り/18.7×27.8cm/書名は当時のまま)には、土器や土版の文様を単純化し、土器本来の色とはことなる彩色を施した模様の数々が載っている。ここで繰り返される曲線的な文様は、土器表面に施された文様を横方向に展開することで見出される。各模様のもとになった考古遺物には、東大人類学教室や東京帝室博物館(現東京国立博物館)の所蔵品が含まれる。考古学者兼画工であった大野は、研究対象である土器類の形や文様に雅致を見いだし、それを染織物や工芸品の図案に応用することを思いついた。学術標本をデザイン化して世に出そうとした大野の試みに興味を惹かれる。
大野延太郎
大野雲外
スミレ(スミレ科)
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旧制第一高等学校の卒業生と在校生による同人誌『世代』に掲載された、加藤周一の「新しき星菫派に就いて」は、若き日の輝く仕事とはかくあるべしという憧れの対象だった。しかし、どんなに努力したとしても、私にはもう同様のことは為しえない。時間は平等であり、残酷でもある。このエッセイでは、加藤が戦争の世代の文学青年らを舌鋒鋭く批判する際に、「星の運命と菫の愛」を唱い賛美する無力・無学の者たちよと、スミレは星と並んでやり玉に挙げられてしまう。3階に展示中の本写生図を眺めながら、スミレが出てくるこのエッセイを思い出したのではあるが、山田壽雄の植物画家としての堅実な仕事ぶりをそこに見出すと、このスミレは「星菫派」などという軟弱な呼ばれ方など意に介さないかのように、凛として見える。1940年に出版された『牧野日本植物図鑑』318頁に掲載されている第952図の「すみれ」は、山田による本写生図とほぼ同じ構図をとっている。牧野富太郎は同書の序文にて作画に関わった三人の画工の名前を挙げており、山田はそのうちの一人であるので、「すみれ」については山田の本図が下図として用いられたのだろう。裏面には「大正14. 5. 5」とあるため、おそらく本図の制作年代は図鑑の出版よりも15年ほどさかのぼる。山田はこの年43歳、図鑑の出版年には58歳であった。同年、牧野はと言えば78歳である。まだまだこれから。いい仕事を目指して努力を惜しんではならない。このスミレはそう私に言っているのかもしれないと考えると、口元がほころびつつも背筋が伸びる思いがした。
山田壽雄
植物画
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数年前に東京大学総合研究博物館のバックヤードで約千枚の植物画がまとめて発見されている。各図には植物の全体図や花の拡大図、花式図などが描き込まれ、洋紙に水性絵具で丁寧な着色が施されている。中心となる制作時期は明治時代半ばと推定され、一部の図にはK.Watanabe(洋画家・渡部鍬太郎)や高屋肖哲(日本画家)の名前を確認することができる。明治時代の東京大学で作られた植物画としては、小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)に残る植物画群がよく知られる。博物館で眠っていた植物画はおそらくその仲間で、東大植物学教室や小石川植物園を舞台とした植物研究の中で生み出されたと考えられる。これら明治時代の植物画は、日本植物学の痕跡を現在に伝える貴重な学術標本といえるだろう。そして、当時の画工や植物学者による植物表現の模索をうかがい知ることのできる格好の美術資料としても、大きな魅力をもっているはずである。
渡部鍬太郎
高屋肖哲
東京大学の画工――渡部鍬太郎
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渡部鍬太郎(1860−1905)は、1881年から1893年にかけて、小石川植物園(現・東京大学大学院理学系研究科附属植物園)で植物写生に従事した画工であった。号を金秋といい、東大画工のかたわら明治美術会や挿絵の分野でも活動した。シャリンバイの描かれた本図(1888年制作/東京大学総合研究博物館蔵)は、渡部鍬太郎の手になるものだ。葉の光沢や実の立体感が水性絵具でよく表されているように思う。植物学者・伊藤篤太郎は1881年頃の小石川植物園を振り返って「渡部鍬太郎といふ若い画工が居た。渡部画工は矢田部教授の羊歯類などの画を写生して居た。併し矢田部氏自身は植物園へは来られなかつた様である」と記している(「伊藤圭介翁と小石川植物園」『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』小倉謙編/1940年)。画工になって間もない渡部は、依頼主である教授・矢田部良吉が不在の中、どうやって植物画を制作していたのだろう。折しも1881年頃の植物園では、東京大学の員外教授に招かれた伊藤圭介が『小石川植物園草木図説』編纂に向けて、熟練の画工・加藤竹斎に数多くの植物画を作らせていた。植物園の日常に植物写生があった光景が思い浮かぶ。
渡部鍬太郎
加藤竹斎
画工の居場所
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東京大学に雇われた画工は、いったい学内のどこで絵を描いていたのだろう。以前から画工の制作現場が気になっていた。同大理学部生物学科に学んだ海藻学者・岡村金太郎は、自身の学生時代を追想した文章を残している(「青長屋―本邦生物学側面史」『科学知識』1922年6月号)。これはそこに載る挿図の一つで、1885年頃の通称「青長屋」と呼ばれた理学部生物学科の見取図である。岡村は当時の植物学教室を「助教授其他書記画工助手などの共同して居る大広間があつて、其処で事務も取れば研究もし、応接もし、雑談もすると云ふ訳であつた」としている。寒くなると大広間にストーブがあったので、学生も教授も皆がそのまわりに集まり、打ち解けた団欒のあたたかみがあったともいう。この見取り図をよく見ると、「松村」(当時の助教授・松村任三)の横に「画家」の机が置かれている。教職員や学生が採集してきたばかりの植物が画工に手渡され、それをすぐさま画工が写生することや、描画対象となる植物についてひとしきり話し込む場面もあったのではないか、とつい想像したくなる。