乱暴力
それを赤瀬川さんは本書の中で〈乱暴力〉〈つまり現場勝負の力〉と指摘している。塗り直しの出来る油絵とは違い、〈紙に墨、一回限りのやり直しのきかない世界〉日本画になぞらえている。そして、一度書いた原稿の内容を「それはもう前に書きましたよ」と担当編集者に指摘されたことすら実況中継しているこの小説こそ、まさに乱暴力の賜物なのだ。ただ、書いてから読者の目に届くまでタイムラグがある新聞小説の形態を考えると、それは宇宙飛行士と地上の管制塔の会話のように少しズレた実況中継というべきだろう。それを赤瀬川さんは〈現実は少し寝かせている間に小説となるのだった〉と書いている。 雪舟はおそらく絵がうまいんだろうけれども、「うまいこと」のひけらかしがない、と言って二人は現代日本画への批判を語っている。
山下 : 今の日本画のいやらしい部分というのは、「うまいだろう」だけになっているんですよね。
赤瀬川 : うーん、それとさ、以前、自分で初めて美術批評を書いたときに、画廊や美術館をいろいろ歩いたんだけど、現代の日本画を見て、ぼくは、これは、貯金通帳だなと思ったね。
山下 : 貯金通帳?
赤瀬川 : 岩絵の具のものすごく高いやつだと思うんだけど、そういう高級絵の具をチョコチョコ、チョコチョコ、塗り重ねているだけでね、絶対損はしないという感じで、乱暴力、ゼロ。利子をズーッと貯めていくだけみたいな(笑)。 絵の神様のように扱われる雪舟だが、よくよく見ると彼の描く絵はちょっとヘン。あの有名な「天橋立図」も凄いんだがどこかヘン。尾形光琳にはなくて、宗達にはある、“乱暴力”とは?雪舟、等伯から、縄文土器や根来塗の器まで日本美術を幅広く応援。教養主義や美術史にとらわれない、大胆不敵な美術鑑賞法を提示する。カラー図版満載。 雪舟を僕はずっと前から「逸脱」と「乱暴力」というキーワードで語っています。この人は、他の画家がやらないようなこと、とんでもないことをやらかす人なんですよ。たいていの人は雪舟を禅宗的な水墨画のカテゴリーに押し込めようとするんだけれど、そんなおとなしい人では全然ない。雪舟は、まったくもって侘び寂びではありませんから。むしろ侘び寂びから最も遠い人なんだ。《天橋立図》も《慧可断臂図》も《四季山水図》も、めちゃくちゃパワフルで非常識な絵ですよ。 だってその当時の明の宮廷画家がめちゃくちゃな絵を描いていたから。彼らは浙派と呼ばれる浙江省出身の職業画家でしたが、南宋時代の繊細な画風に比べて“狂態邪学”と非難されたほど、粗放で乱暴な絵を描いていたんです。たとえるなら、印象派を学ぼうと渡仏したら、アクションペインティングが流行っていた、という状況でしょう。狂態邪学な絵を見て雪舟は「これでいいのだ」と思ったわけです。
一番有名な雪舟の絵といえば《秋冬山水図》ですね。これがなぜ有名になったかというと、1969年に第一次国宝シリーズの切手になったから。しかも教科書や美術書にもよく載っています。なぜかというと、絵の縦横比が出版物の判型にちょうどいいんですよ。だって《山水長巻》なんて横長すぎて載せられないじゃない? 意外とそんな単純な理由で選ばれた絵が結局は世の中に流布していくわけです。
今回も、「乱暴力」という言葉を巧みに使いあって日本美術を語り合う。円空の乱暴力は凄いとか、応挙には乱暴力がないからダメだと思っていたらそうじゃなかったとか。美術の鑑賞に「乱暴力」という概念を持ち込んだ。「乱暴」なんて言葉を使うこと自体乱暴ではないか。その逆説的な視点が、これまでとは異なった美術の魅力を浮き彫りにする。 登場してくるのは、雪舟、長谷川等伯、伊藤若冲、東洲斎写楽、葛飾北斎、縄文土器、龍安寺の石庭、尾形光琳、青木繁・・・。現代美術作家赤瀬川原平が、そんなこと聞いていいのかという質問に対して、美術史家山下裕二が的確に打ち返す。打ち返しながらその質問の凄さに自ら感動している。