フリッツ・クレイマーとヘンリー・キッシンジャー
フリッツ・クレイマーとヘンリー・キッシンジャー
「傍観者の時代 」 第7章 キッシンジャーをつくった男クレイマー プロシアの近衛士官並みの出で立ち
一九二八年から二九年にかけてのヨーロッパの冬は、一〇〇年ぶりという寒さだった。ライン川、ドナウ川、エルベ川、ローマ川とそれらのあらゆる支流が氷りつき、三月末になっても解けなかった。
そうした四月初めのある日、凍てつく風雨の中、私はフランクフルトの中心部を流れるマイン川の浮氷の間で、一隻のカヤックを見た。黒の海水パンツの片眼鏡の若者が、上流に向かって猛烈な勢いでパドルをかいていた。船尾には、黒、白、赤の旧ドイツ帝国海軍の戦旗が激しくはためいていた。
また奴だ」といった人に、私は誰かと聞いた。「フランクフルト大学の法学部の学生だ。クレイマーという名前だ。頭はおかしいかもしれないが危ないことはないよ」
キッシンジャーを見つけ育てたクレイマー
キッシンジャーの若い頃については本も出ており広く知られている。ドイツからの難民としてアメリカに入国して、すぐ二等兵として陸軍に徴兵された。基礎訓練中に、ヨーロッパ戦線について同郷の元ドイツ人から講義を受けた。その講師がフリッツ・クレイマーだった。
キッシンジャーの外交政策
国の大きさと軍事力の可能性だけで、中国を大国と定義することの妥当性はまだわからない。毛沢東とポスト毛の中国が、清国を超えるものになるかどうかさえまだわからない。しかし、日本を大国の定義からはずし経済力を無視することに妥当性のないことは、すでに明らかである。
まだこの当時、中国は大国ではなかった
1978年
クレイマー・ドクトリンに一字一句従った形での、日本の頭越しの中国承認、一九七一年のドル切り下げという二つの日本無視の政策は、まったく必然性のない外交上の大失敗だったといわなければならない。日本がその産業力のゆえにアジア太平洋地域における大国となることは目に見えていた。
日本の頭越しの中国承認
ニクソン大統領の中国訪問(ニクソンだいとうりょうのちゅうごくほうもん)は、1972年2月21日にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を初めて訪問し、毛沢東主席や周恩来総理と会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換して第二次世界大戦後の冷戦時代の転機となった訪問である。また、前年の1971年7月15日に、それまで極秘で進めてきた米中交渉を明らかにして、自身が中華人民共和国を訪問することを突然発表して世界を驚かせたことで、「ニクソン・ショック」と呼ばれている。また、「ニクソンが中国に行く」という政治用語も生まれた
『中国のニクソン』(ちゅうごくのにくそん、Nixon in China)は、ジョン・クーリッジ・アダムズ作曲、アリス・グッドマン台本による3幕のオペラ。
アダムズの最初のオペラであり、米国大統領リチャード・ニクソンの1972年の中国への電撃訪問を題材に書かれた。
一九七一年のドル切り下げ
第2次ニクソン・ショック(ドル・ショック)は、1971年8月15日に発表された、米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた新しい経済政策をいう