これからの議論と実践においては「人」を軸とした思考が必須になる
https://gyazo.com/a57f9c3f24663559215fba8fe2555f94
翻訳の問題を超えた、「サイクリスト」という線引き自体の是非についても触れておきたい。どんな自己イメージを持つかは個々の自由だから、そこはもう何でもよいと思う。一方、自転車全般、さらに交通全般、そして社会全体について考え、論じるには、「サイクリスト」というフレーミングは明らかに小さ過ぎる。 英語の cyclist でさえ、しばしば cycling より慎重に使うべき語とされる。例えば筆者が関わった Cycling Fallacies(自転車利用についてのよくある誤解)の翻訳では、人と行為を固定的に結ぶ文言をなるべく回避し「自転車で移動中の人」といった形に崩すよう内部ガイドラインで指示されている。これからの世界的かつ地に足の着いた議論と実践においては、こうした「人」を軸とした思考が必須になるだろう。 「自転車で移動中の人」
人と行為を固定的に結ぶ文言を回避する
指示範囲が cyclist と同等レベルといえる日本語の言葉は「自転車利用者」あたりだろうか。筆者もこれをよく使うが、前述のガイドラインに照らすと常にこれでよいとはいえそうにない。「歩行者」や「ドライバー」といった語もまた同様の固定化=分断のリスクをはらんでいる。こうした基礎語彙を少しずつほぐし、ずらしていくことは、困難だが重要な仕事である。 「自転車利用者」
「歩行者」
「ドライバー」
https://gyazo.com/0703e89b4bab9602e74e438b0c840898
「人と行為を固定的に結ぶ文言をなるべく回避し」「語彙を少しずつほぐし、ずらしていくこと」にはそういう分断を解きほぐす意味がある
言葉はラベルになってあるものを2つにに分ける
Aである / Aではない
そこに分断が生まれる
言葉にはそういう力がある
軸をずらしていくこと
ノーラン・チャートの例
https://gyazo.com/7ccf4533a1a4e64b9cd82b4e2aac689c
例えが悪いかもしれないけど、実際には誰もがこのチャート平面のどこかにいる