政治的イコノグラフィーについて 「序言」
政治的イコノグラフィーについて 「序言」
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ここに集めた試論ないし実験は互いにきわめて異なったテーマを扱っているがしかしすべてが政治的イコノグラフィー〔図像学〕に結びついている。これにたいしてさほど明確ではないのはそれらが共有している分析道具のほうである。一世紀以上前にアビ・ヴァールブルクが提唱した「パトスフォルメル」 pathosformel 〔情念定型〕という概念がそれである。
わたしがここで採用してきたヴァールブルクとは部分的に異なる用法に触れるまえにこの概念の意味内容と起源について一瞥しておこう。
〈略〉
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ヴァールブルクの仕事を縦断している形態学と歴史学のあいだの緊張にはいくつかの客観的な根 radici がある。もろもろの「パトスフォルメル」の伝達はその時々の歴史的な偶発的状況に依存している。一方それらの「パトスフォルメル」への人間たちの反応は完全に別種の偶発的状況に依存しておりそこでは歴史の多かれ少なかれ短い時間は進化のとてつもなく長い時間と絡み合っている。この絡まり合いのもろもろの様態はなおも広範囲にわたって未調査の研究領域へとわたしたちを送り届ける。ここに集めた試論がそうした研究へのささやかな貢献であってくれればと願っている。
第一試論 「記憶と距離 —— 金めっきされた銀杯(アントワープ、1530年頃)について」
第一試論ではミュンヘンのレジデンツ〔大使公邸〕のシャッツカマー〔宝物の部屋〕に保存されている金メッキされた銀杯の分析をとおして、新世界の征服というそれまでの通念をひっくり返してしまう新しい現実を表象するために古代風にしつらえた「パトスフォルメル」が曖昧模糊とした機能を展開していたことが示されている。
第二試論 「今日ホッブズを読み返す」
第二試論では恐怖と崇敬とが合流している "awe" という用語がホッブズの省察の中心的要素であることを突きとめることによって両極端の両義的な情動表現を基軸としたとてつもなく長期間にわたる歴史の決定的な一章が明らかにされている。
第三試論 「ダヴィッド、マラー —— 芸術・政治・宗教」
恐怖と崇敬はダヴィッドの《最後の息を引き取ろうとしているマラー》を扱った第三試論試論でも中心に位置している。ここではまず異教の、次いではキリスト教のイコノグラフィーに登場するもろもろの身振りが革命のイコノグラフィーに奉仕すべく取りあげ直されていて世俗化にまつわる曖昧さを範例的な仕方で図解してみせている。
第四試論 「祖国はきみを必要としている」
これと同じ主題は暗々裡にではあるが第四試論でも立ち現れている。キッチナー卿の身振りの諸前提は遠くにあるものも近くにあるものも含めて彼の身振りが驚嘆すべき効果を上げたことの理由をわたしたちが理解するのを手助けしてくれる。
第五試論 「剣と電球 —— 《ゲルニカ》読解のために」
最後に第五試論では古代的なものと現代的なもの、粉々になった剣と電球を暴力的に対置しようとしたピカソの試みを分析することをつうじて《ゲルニカ》に予想外の光が投げかけられている。わたしたちが立ち戻っているのは恐怖とその身振りである。これは政治的イコノグラフィーに献げられたこれらの試論のまさに核心にあるテーマなのである。
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「パトスフォルメル」という概念は近代の図像が古代に起源を有していること、そしてそれらの起源にどのようにして改訂がほどこされてきたのかを明るみに出す。しかしヴァールブルクがわたしたちに伝達してきた分析道具はそれが当初練り上げられた際に対象となっていた現象とは大きく異なった現象にも拡大適用することができる。
『リヴァイアサン』の表紙 —— 政治的イコノグラフィーの有名な見本 —— は、タキトゥスの古い言葉 "fingunt simul creduntque" 〔「人々は自分たちが作りあげたものをただちに信じ込む」〕を新しい図像に翻訳している。この場合わたしたちが眼前にしているのは情動ではなく観念である。情動を対象とする「ロゴスフォルメル」 logosofrnel である。わたしたちはわたしたち自身が作りあげた嘘に支配されてしまっているのだ。この観念は戦意を喪失させるパラドクシカルな単純さを有していることによってわたしたちが政治の言語およびそのイメージについての批判を展開する手助けをしてくれる。
(私見: 短い文章なのに膨大な注釈が掲載されている)