政治哲学史講義 ホッブズ講義Ⅲ 「実践的推論についてのホッブズの説明」補遺B 「ホッブズの自然法」
補遺B 「ホッブズの自然法 —— 『リヴァイアサン』第14-15章」
自然法 = 自分自身の生命などに対して破壊的なことをなすのを禁じる、理性によって発見される教えと定義される
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第14章「第一と第二の自然法について、および契約について」
pp.216-
《自然の法とは何か》
自然の法 Law of Nature 〔自然法 Lex Naturalis 〕とは、理性によって発見された戒律、すなわち一般法則であって、それによって人は、かれの生命にとって破壊的であること、あるいはそれを維持する手段を除去するようなことを、おこなうのを禁じられ、また、それをもっともよく維持しうるとかれが考えることを、回避することを禁じられる。
第14章 第一、第二の自然法と、契約について
自然の権利とは何か
自由とは何か
自然の法とは何か
権利と法の違い
各人は自然的に、あらゆるものに対して権利をもつ
基本的自然法
第二の自然法
権利を放棄するとは何か
権利を放置するとは何か
権利を譲渡するとは何か
〈以下、略〉
第15章 他の自然法について
第三の自然法、正義
〈途中、略〉
第四の自然法、報恩
第五、相互の順応、あるいは従順
第六、許容の容易さ
第七、復讐において人びとは将来の善だけを顧慮するということ
第八、反傲慢
第九、反自慢
第十、反尊大
第十一、公正
第十二、共有物の平等な使用
第十三、くじについて
第十四、長子相続と先占
第十五、仲介者について
第十六、仲裁への服従について
第十七、だれも自分自身についての裁判官ではない
第十八、不公平であることの自然の原因を自分の中にもつ者はだれでも裁判官であるべきではない
第十九、証人について
自然法を容易に検査することができる法則
自然法は、良心において常に義務づけるが、結果については安全保障があるときにのみ義務づける
自然法は永遠である
しかもやさしい
これらの法についての科学が、真実の道徳哲学である
ホッブズの自然法(ロールズの要約)
第一の自然法
第一の分枝 —— 平和を求めよ
第二の分枝 —— 自分自身を防衛せよ
『リヴァイアサン』第14章 《基本的自然法》 pp.217-
第二の自然法
わたしたちは他の人々もそうであるなら平和のために進んですべてのものを放棄すべきである
『リヴァイアサン』第14章 《第二の自然法》 p.218
第三の自然法
結ばれた信約を履行せよ
『リヴァイアサン』第15章 《第三の自然法、正義》 p.236
第四の自然法
感謝 —— 誰にも人々の善意を拒絶させない
『リヴァイアサン』第15章 《第四の自然法、報恩》 pp.245-
第五の自然法
相互の適応
『リヴァイアサン』第15章 《第五、相互の順応、あるいは従順》 pp.246-
第六の自然法
犯罪に対して、後悔したときは恩赦を与える
『リヴァイアサン』第15章 《許容の容易さ》 p.247
第七の自然法
復讐ではなく、将来の善のために処罰せよ
『リヴァイアサン』第15章 《第七、復讐において人びとは将来の善だけを顧慮するということ》 pp.247-
第八の自然法
他人に対して軽蔑や嫌悪を示さないこと
『リヴァイアサン』第15章 《第八、反傲慢》 p.248
第九の自然法
誇りに反して、他の人々を生まれながらに平等な者として認めよ
『リヴァイアサン』第15章 《第九、反自慢》 pp.248-
第十の自然法
尊大に反して、社会契約の際には誰も、他の人々が同じように留保することを自分が望まないいかなる権利も留保しないこと
『リヴァイアサン』第15章 《第十、反尊大》 pp.249-
〔第十一から第十四は、区別された正義について〕
第十一の自然法
裁判官は、人々の間で平等に判断を下すべきこと
『リヴァイアサン』第15章 《第十一、公正》 p.250
第十二の自然法
共有物の使用
『リヴァイアサン』第15章 《第十二、共有物の平等な使用》 p.251
第十三の自然法
『リヴァイアサン』第15章 《第十三、くじについて》 p.251
第十四の自然法
自然的な籤の使用、すなわち長子相続権
『リヴァイアサン』第15章 《第十四、長子相続と先占》 p.251
〔第十五から第十九は、自然的正義について〕
第十五の自然法
仲裁者は安全に行動するのをゆるされるべきであること
『リヴァイアサン』第15章 《仲介者について》 pp.251-
第十六の自然法
紛争は仲裁に委ねよ
『リヴァイアサン』第15章 《第十六、仲裁への服従について》 p.252
第十七の自然法
誰も自分自身の訴訟で判決を下さないこと
『リヴァイアサン』第15章 《だれも自分自身についての裁判官ではない》 p.252
第十八の自然法
自然的な原因によって偏った人は、誰も裁判官たり得ないこと
『リヴァイアサン』第15章 《第十八、不公平であることの自然の原因を自分の中にもつ者はだれでも裁判官であるべきではない》 pp.252-
第十九の自然法
裁判官は、事実の争いにおいてどの一人の証人も別の証人たち以上に信用すべきでないこと。そしてその別の証人についても同様
『リヴァイアサン』第15章 《第十九、証人につい》 p.253
自然法の要約:
自分に対して欲しくないであろううことを、他人に対してしてはならない
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第15章「その他の自然法について」
《自然法を容易に検査することができる法則》 pp.253-
〈「第十九、証人について」の後段より〉
〈ここまでの全ての自然法を指して、〉
以上が、群衆としての人間の保存の手段として平和を指示する自然法であり、それは市民社会についての学説だけに関係するのである。
〈略〉
《自然法を容易に検査することができる法則》
これらは諸自然法のあまりに精細な演繹であってすべての人によって注意されえないように見えるかもしれない。理解するには人びとの大部分は食物を得るのに忙しすぎ、残りは怠惰にすぎるのである。そうではあるがすべての人を言い逃れできないようにするために諸自然法はもっとも乏しい能力にさえ理解できるような一つのわかりやすい要約にまとめられた。
それは「あなたが自分自身に対してしてもらいたくないことを他人に対してしてはならない」というのである。
これは彼に諸自然法を学ぶにあたって次のこと以上はしなくていいということを示す。すなわち他の人びとの諸行為を彼自身のそれと秤量ひょうりょうするときに彼らのそれの方が重いように見えるならばそれらを秤の他方にまわして彼自身のものを彼らの場所におき彼自身の情念と自愛心がなにも重さを加えないようにせよということである。 そうすればこれらの自然法のうちのどれ一つとして彼にとって非常に「尤ももっともだ」 reasonable と思われないものはないであろう。 自然法は内なる法廷において拘束力をもつ
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第15章「その他の自然法について」
《自然法は、良心についてつね義務づけるが、結果については、安全保障があるときにのみ義務づける》 pp.254-
《自然法は、良心についてつね義務づけるが、結果については、安全保障があるときにのみ義務づける》
自然法は内面の法廷において義務づける。いいかえれば、それらはそれらがおこなわれるべきだという意欲をもつように拘束する。
しかし、外面の法廷において、すなわちそれらを行為にうつすことには、つねに拘束するのではない。なぜなら、ある人が謙虚で従順であって、彼のすべての約束を、他の誰もが履行しない時と所において、履行するとすれば、それは彼自身を他の人びとの餌食にし、彼自身の確実な破滅を招くだけであって、そのことは自然の保存を目指すすべての自然法の基礎に反するのだからである。
さらにまた、他の人びとが彼に対しておなじ自然法を遵守するという十分な保障がありながら、自分ではそれらを遵守しない人は、平和ではなく戦争を求めるのであり、したがって暴力による彼の自然の破滅を求めるのである。
そして、内面の法廷において拘束する諸法はすべて、その法に反する行為によってのみならず、それに一致した行為によっても、もし人がそれに反して考えるならば、破棄されうる。なぜならこの場合は、彼の行為は法と一致しているとしても、彼の目的は法に反していたのであり、それは、義務が内面の法廷におけるものであるところでは、破棄なのだからである。
Def. 道徳哲学
人間の社会にのいて何が善であり、何が悪であるかについての科学
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第15章「その他の自然法について」
《これらの法についての科学が、真実の道徳哲学である》 pp.255-
《これらの法についての科学が、真実の道徳哲学である》
そしてそれらについての科学が真実で唯一の道徳哲学である。なぜなら道徳哲学は人類の交際と社会において何が善で何が悪であるかについての科学に他ならないからである。
平和の必要条件から自然法を支持する議論
《これらの法についての科学が、真実の道徳哲学である》 pp.256-
〈上記、つづき〉
善と悪はわれわれの欲求と嫌悪を表わす名辞であってそれらは人びとの気質、習慣、学説が違うのに応じて違っている。そして様々な人びとは味覚・嗅覚・聴覚・触覚・視覚において何が快であり何が不快であるかについての判断が違っているだけでなく、日常生活の諸行為において何が理性に合致し、何が合致しないかについての判断も違っている。
否、同一の人間でもときが違えば自分自身と違うのであって、他のときには非難して悪と呼ぶものを、あるときには称賛しすなわち善と呼ぶのだ。そこから議論が起こり総論が起こりついには戦争が起こる。
そしてそれだから私的な欲求が善悪の尺度であるかぎり人はまったくの自然状態〔それは戦争の状態である〕にあり、その結果すべての人は平和が善であること、したがってまたそれへの道あるいは手段、すなわち〔私が前に示したように〕正義、報恩、謙虚、公正、慈愛およびその他の自然法が善であり、いいかえれば道徳的な徳 Morall Verues であり、それらの反対の悪徳が悪であることに同意する。
〔1983年のロールズ講義より〕
1
自然法に従うわたしたちの義務に関してホッブズは次のように言っています。
自然法は〔内なる法廷においては〕それらが行われるべしという欲求へと拘束するが、〔外なる法廷においては〕必ずしもそれらを実行に移すよう拘束しない。なぜなら、もしある人が自分で約束したすべてのことを履行して、他の誰も履行しないなら彼は「すべての自然法の根源に反して自分自身を他の人々の餌食にして〔いるのであり〕、確実に自分自身の破滅を引き起こして〔いる〕」(『リヴァイアサン』第15章)
岩波文庫『リヴァイアサン』第1巻 第1部 「人間について」第15章「その他の自然法について」
pp.254-
《自然法は、良心についてつね義務づけるが、結果については、安全保障があるときにのみ義務づける》
自然法は、内面の法廷において義務づける。いいかえれば、それらは、それらがおこなわれるべきだという意欲をもつように、拘束する。
しかし、外面の法廷において、すなわちそれらを行為にうつすことには、つねに拘束するのではない。なぜなら、ある人が謙虚で従順であって、彼のすべての約束を、他の誰もが履行しない時と所において、履行するとすれば、それは彼自身を他の人びとの餌食にし、彼自身の確実な破滅を招くだけであって、そのことは自然の保存を目指すすべての自然法の基礎に反するのだからである。
2
彼〔ホッブズ〕は自然法のそれぞれは各個人の合理的善のためであると考えています。そのように、実際、社会生活の理に適った特徴は、各人の合理的利益によって正当化される論拠をもちます。
ホッブズは自然法に数えられるすべての教えをこの種の命令として正当化しようとしますが、しかし、ただ他の全ての人が同様にそれらの自然法に従うことが仮定される場合にのみ正当化する議論を行っているのです。
〈了〉