対話ができる人、できない人
対話ができる人、できない人
2011/11/7
対話とは何か、と言えば、わたしの考えでは、意見の異なる者(主として二者)が深く話し合うこと、相手の考えをよく聞きながら自分の意見を相手に伝えること、意見交換をすること、更には対話がひとところに留まっているのではなく、弁証法的に発展していくもの、というイメージがあった。が、今回この本を読んで、重要な更なるポイントを発見した。それは対話によって「自分が変わる」ことである。立ち場や考えが異なる二者が深く話し合えば、対立はくっきりと浮かび上がる。明らかになった差異、対立をどうするか。それが対話のクォリティなのだ。 対話において、自分が変わることがいかに大切か(それは対話の相手にとっても同じだが)。それは異なる考えを持つ話者が、それまでの自分の考えを相手の考えを起因として修正することで、初めて新しい世界が目の前に開かれることだ。自分が(そして相手が)、堅固で変え難い自己を軌道修正することで、二人の前に新しい道が開かれる、それが対話の意味であり、成果だと思う。
たがいに同調しあうという閉じた社会から、各人が文化や社会というかたちで引きずっている異なった背景の摺(す)り合わせをきちんとおこなう社会への移行が求められるなかで、真のコミュニケーションは「伝わらない」という局面を直視することより始めるしかない。そこには表現の不安がつきまとう。演劇人も一般市民も日々その不安と格闘している。だからこそ演劇は社会的実験につながる。戯曲とは、ガラス細工のように繊細な「対話のレッスン」にほかならないからだ。
対話というものが、可能なのか。
日本語は対話が可能なことばなのだろうか?
もしかしたら、対話を可能にすることばとしての日本語はまだ生まれていないのではないか。
臨床哲学者・鷲田清一さんと精神科医・崎尾英子さん、劇作家・平田オリザさんの3人に、対話をめぐる対話をアゴラ劇場の稽古場で試みた。