二十歳のころ
「根府川の海」
「わたしが一番きれいだったとき」
「汲む ―Y・Yに―」
「静かにいくものは
すこやかに行く
健やかにいくものは
とおく行く」
詩誌「櫂」
自分をつかんだって思えたのは、やっぱり結婚してからですね、
やっぱり自分をつかむというのはむつかしい、と思います。まだつかんでないかも しれないわね。だから死ぬまで続くんじゃないでしょうか。これが自分だと思ったの が、そうじゃなかったりもするわけですから。
自分に出会うっていうことは、ほんとにむつかしいことですね。一番むつかしいこ とかもしれない。そしてはたちなんてのは、そのもっともトバ口なんだと思いますね 。一番もやもやして不透明で、一番苦しい時期だと思います。
「わたしが一番きれいだったとき」
ただ、ああ、今はたちなんだって思ったときがありました。鏡見たら、目が真っ黒 くろに光っててねえ。うーん、そうか、今はたちなんだ、今が一番きれいなときかも しれないっていうふうに思ったのね。残念なのは、自分の若さが誰からもかえりみら れないということ、
そのときはちょうどベトナム戦争の時だ ったんです。
つまり、ベトナムにはベトナムの、一番美しい時を持った少女たちがいたわけ ですからね。そういう子達の思いっていうのもふくめてくれたなって。だから、そう いい気な詩ではなかったなって今になって思うんです。
一番美しいときは、やっぱり最高に輝いてほしいわけ、どこの国の少女たちにもね 。戦争なんかで惨憺たる思いさせたくないじゃないですか。そういう願いの詩
「学校 あの不思議な場所」
今は、勉強し たい人っていうのは心ゆくまで勉強できる環境でしょ。それも男にも女にも開かれて るわけでしょ。そんな時代って今までなかったわけですから
今の若者は詩が書きにくいだろうな、とは思います。昔はね、何か一つ、たとえば 、人間らしく生きたいよ、というようなテーマで書けば、中でこう、ぼぼぼーんと共 鳴する、共通の社会的基盤ががあったわけでしょう。でも、今はそれがないでしょう?
万葉集が好きで、はたちのころもずっと読んでました。山上憶良なんかが好きでし たね。あの人は渡来人で、やっぱり当時の人のなかでもちょっと変わってて、
19歳のときに学徒動員があって世田谷上馬の海軍療品敝で薬品づくりをしていると、敗戦の玉音放送があった。何を言っているのか、わからない。けれどもそれは、茨木のり子が「一番きれいだったとき」だったのである(実際、とてもきれいな人だ)。きれいだったけれども、私は実はひたすら逃げ腰だった、怖かったということを、のちに『はたちが敗戦』というエッセイに書いている。
敗戦直後、戦争に負けた卑屈な町にいて、急に戯曲や童話が書きたくなった。22歳で山本安英に出会い、ちょっとだけ戯作した(のちに「ぶどうの会」にもかかわった)。
23歳で医者の三浦安信と一緒になった。所沢に住んだ(へえ、所沢だったんだ)。見合いだったようだが、この「寡黙で古武士のような」夫に惚れた(詩の中にはしばしばYとして出てくる)。どう惚れていくかということが始まった。
一方で、もう一人の自分も動き出した。翌年、茨木のり子のペンネームで詩を投稿した。結婚して、もう一人が動き出したのだ。『いさましい歌』である。
はたちが敗戦
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