ワールドワイドウェブのこと
from 2025/07
ワールドワイドウェブのこと
ワールドワイドウェブのこと|ARTICLES|The Graphic Design Review
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baku サンの感想
/glisp/ワールドワイドウェブのこと
そもそもデフォで公開物に付与されるのはコピーライトであって、パブリック・ドメインじゃないんじゃないか。
あと、サブスクというビジネスモデルは(AI系サービスならまだしも)フェアユースには立脚していないのでは、
反論1 : まずサブスクリプションの話の方への反論
これは baku サンの誤読に近いのではと思っていて、
永原康サンはまず
ウェブでは、この「シェアとフェアユースの考え方」でさまざまなものが生まれてきました。
と言っている。それに続いて
サブスクリプションも基本的にはシェアとフェアユースの考え方でできています。たとえば ... snip...
と言っていて、音楽のサブスクリプションであっても、それはウェブの世界で行われているのだから、ウェブの概念に則っているのだ、というのが本筋
で、この「シェアとフェアユースの考え方」というふうに1つにくくっている考え方の原則は、その前に書かれている、
ウェブで公開するということは、公開したものをウェブで共有することで、ウェブが作る社会に参加するということ
に掛かっています。
ウェブが作る社会に参加することとは「共有」を意味する、と
「共有」とは共有する側と共有される側の双方向の行為で、これには「公正に利用する」という考え方が必須である
共有とは権利を分かち持つこと
「フェアユース」という法律上の文言だけでこれを捉えてしまうと、非常に狭い範囲の話になってしまい、本質を見失う可能性があります
フェアユースの概念の重要な部分は「権利は、それが公正である場合、制限され得る」という部分です
所有の権利は、それが公正な場合、制限される
反論2 : コピーライトの話への反論
これは僕の方の誤読だと思うけど、
「作品」(モノ)が製作された途端にコピーライトがニョキニョキと生えてくる、というのは現代の法制度の下においてであって、
自然においては「モノ」が誕生した途端にコピーライトが勝手に発生するわけではない
コピーライトは自然に発生しない
「人のものはとってはいけません」
逆にインターネットはその仕組み上、情報が共有されることはまんまそのまま「コピー」を意味するので、権利や法の話ではなく、もうどうしようもなく途端に「パブリック」になってしまう
公開されたとたんに、それが CC であろうとパブリック・ドメインであろうとコピーライトであろうと、そんなこととはお構いなく瞬時に複製される
インターネットではその野生がコピーでありパブリック
すべての行為はコピーだ
/hub/インターネットの歴史におけるコピーの話
コピーは自然に発生する(自然にパブリックになってしまう)
フェアユース
Fair use - Wikipedia
1710年の英国議会法であるアンヌ法は、文房具会社が施行していた私的発注システムに代わる著作権法を創設した。アンヌ法は、著作権で保護された資料の無許可使用の合法性を規定していなかった。Gyles v Wilcox において、衡平法裁判所は「公正な要約」の原則を確立し、一定の状況下で著作権のある作品の無許可の要約を認めた。時が経つにつれ、この原則はフェアユースやフェアディーリングという現代の概念へと発展した。フェアユースは、 1976年の著作権法(17 USC § 107) に組み込まれるまで、米国では判例法上の(すなわち、判事が法的先例として作成した)原則であった。
フェアユースは(当たり前だけど)、インターネット以前からある法概念
必要にかられて、インターネットの「モノ」に対して、すでにある法概念を適用した、と考えられる
自然とインターネットはそのアーキテクチャが異なる、という前提
アーキテクチャが異なるものに対して、同じ法概念を適用することによる、不整合が存在する
フェアユースという単語の概念は、フェアという概念のごく一部のみを占める
正義と所有、所有と冨、冨と社会的基本財
https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2025/06/02/105959#土曜日
僕は永原康史サンのこの文章の中に、自由(フリー/リバティ)、それから、共有(シェア)と公正(フェア)を見出します。
永原康史サンはこの文章で最後にライセンス、コピーライトとクリエイティブ・コモンズ・ライセンスについて問いかけるので、フェアユースの話をしています。だから文脈がぼやけて見えますが、核心にあるのは「フェア」。
フェアの話は公正の話で、つまりこれは正義についての話です。
僕はいま、ロールズの『道徳哲学史講義』をやっています。ちょうどヒューム講義の真っ最中で、ヒュームは「正義」の起源を「所有」の起源に求めています。
ここで「シェア」と「正義」が繋がりました。ハレルヤ。
18世紀のヒュームが想定している所有権の対象、つまり財産とは土地や家屋や金銀といった「冨」を指します。それはシェアすればなくなるものでした。つまりカット&ペースト。
インターネットでは全ての行為がコピーなので、シェアしてもなくなりません。つまりコピー&ペースト。
ジョン・ロールズはこの「冨」を「財」(社会的基本財)としていて、もう少し広い範囲として定めています
https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/10/22/161633#価値があるという感覚
ジョン・ロールズ『正義論』、その始めの方に「すべての社会的な諸価値は平等に分配されるべきである」とあります*8。ここでいう社会的な諸価値とは「社会的基本財」と呼ばれます*9。
*8:ジョン・ロールズ『正義論』第2章「正義の諸原理」第11節 正義の二原理
*9:ジョン・ロールズ『正義論』第2章「正義の諸原理」第15節 予期の基礎としての社会的基本財
社会的基本財を大別すると、権利、自由、機会、そして所得および富となる(きわめて重要な基本財として〈自分自身には価値があるという感覚〉があるけれども、論述を単純化するために、この基本財については、かなり後で取り上げる)。
「自分自身には価値があるという感覚」
インターネットは買うものではなく,作るものだ
/hub/インターネットは買うものではなく,作るものだ
『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』を読む(ボーナストラック以外) | text.Baldanders\.info
私が考えるに,インターネット・ユーザに要求される唯一のルールは「インターネットに参加する」ことであり,そこに付随するコストとリスクと責任を(手の届く範囲で)引き受けることである。 インターネットは(コンビニとかでw)買うものではなく,作る(make)ものだ。
本来インターネットに接続するマシンは,網または網間を繋ぐ「ノード」として機能する。 しかしノードを構築・維持するには相応のコストがかかる。 回線だって安くないし,そもそもカセットテープやフロッピー・ディスクで運用しているマイコンやパソコンなんか全くお呼びではなかった。 でも,この「参入障壁」こそが初期インターネットを守っていたのである。