スペイン内戦
from 2020/09
スペイン内戦
第二次世界大戦の前触れとしての「スペイン内戦」
傍観者の時代 ピーター・ドラッカー 第9章 「反体制運動家ブレイルズフォードの挫折」
そしてスペインからの報道があった。共和派はようやくもちこたえていた。フランコが勝利するのは一年先のことだった。しかし共和派は防戦一方だった。ドイツとイタリアがフランコのために武器と兵員を送り込んでいたのに対し、西側の大国は共和派への武器の輸出を禁じたままだった。
ところがほとんど同時に、ジョージ・オーウェル、アーサー・ケストラー、アーネスト・ヘミングウェイ、あるいはアブラハム・リンカーン旅団の帰還者の一致した証言として、その嘘が事実であることが明らかにされていった。
ジョージ・オーウェル
アーサー・ケストラー
アーネスト・ヘミングウェイ
https://ja.wikipedia.org/wiki/スペイン内戦
スペイン内戦( -ないせん、スペイン語:Guerra Civil Española、英語:Spanish Civil War)は、1936年から1939年まで第二共和政期のスペインで発生した内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府(共和国派、ロイヤリスト派)と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争った。
左派、人民戦線(共和国派、ロイヤリスト派)
右派、反乱軍(ナショナリスト派)
フランシスコ・フランコ
反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦、メキシコが支援し、欧米市民知識人らも数多く義勇軍として参戦、フランコをファシズム陣営のドイツ、イタリア、ポルトガルが支持・直接参戦するなどした。
人民戦線をソビエト連邦、メキシコが支援
反ファシズム
共産党
反乱軍をドイツ、イタリア、ポルトガルが支持
ファシズム
内戦中、政府側の共和国派(レプブリカーノス)の人民戦線軍はソビエト連邦とメキシコの支援を得、コミンテルンが各国共産党を使って、西欧諸国の個人から多くの義勇兵(その大半は共産党員)を得た一方、反乱軍側である民族独立主義派(ナシオナーレス)の国民戦線軍は隣国ポルトガルの支援だけでなく、イタリアとドイツからも支援を得た。この戦争は第二次世界大戦前夜の国際関係の緊張を高めた。
この戦争では特に戦車および空からの爆撃が、ヨーロッパの戦場で主要な役割を果たし注目された。戦場マスコミ報道の出現は空前のレベルで人々の注目を集めた(小説家のアーネスト・ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェル、写真家のロバート・キャパらが関わった)
ロバート・キャパ
https://ja.wikipedia.org/wiki/フランシスコ・フランコ
https://ja.wikipedia.org/wiki/フランコ体制下のスペイン
https://ja.wikipedia.org/wiki/アーネスト・ヘミングウェイ#生涯
行動派の作家で、1930年代には人民戦線政府側としてスペイン内戦にも積極的に関わり、その経験を元に行動的な主人公をおいた小説をものにした。『誰がために鐘は鳴る』『武器よさらば』などはそうした経験の賜物であり、当時のハリウッドに映画化の素材を提供した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ・オーウェル#スペイン内戦に参戦
スペインでは王政が倒れ、内戦が起きていた。彼は1936年にスペインに赴き「新聞記事を書くつもり」でいたがバルセロナでの「圧倒的な革命的な状況」に感動して、彼はフランコのファシズム軍に対抗する一兵士として、1937年1月トロツキズムの流れを汲むマルクス主義統一労働者党(POUM)アラゴン戦線分遣隊に伍長として戦線参加したオーウェルは、人民戦線の兵士たちの勇敢さに感銘を受ける。また、ソ連からの援助を受けた共産党軍のスターリニストの欺瞞に義憤を抱いた。
5月に前線で咽喉部に貫通銃創を受け、まさに紙一重で致命傷を免れる。傷が癒えてバルセロナに帰還するとスターリン主義者によるPOUMへの弾圧が始まっており、追われるようにして同年6月にフランスに帰還する。
1938年4月、スペイン内戦体験を描いた『カタロニア讃歌』を刊行する。彼の生存中、初版1500部のうち900部売れたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アーサー・ケストラー#ナチズムとスターリニズムの間で
パレスチナへの入植は思わしい結果に繋がらず、現地でドイツ最大の通信社ウルシュタインの職を得たのがきっかけとなり1929年にはフランス支局の特派員となった。翌年、自然科学についての知識の深さを認められ、科学欄編集長としてベルリン本社へ配属され、ここでナチスの台頭に直面する。以降、ホロコーストを題材とした小説『出発と到着』(1943)の執筆など、終戦に至るまで一貫したナチス批判を繰り広げることになる。同時期、マルクス・エンゲルスの思想に出会いドイツ共産党に入党する。ほどなくウルシュタイン社を解雇され国際革命作家同盟の招きでソビエトに滞在したが、その全体主義的独裁体制を目の当たりにして、1933年にフランスに亡命することとなった。以後、スペイン内戦までの期間を食事にも事欠くような生活を送る。
スペイン内戦では、共産党組織のつてを頼り、英ニュース・クロニクル紙の特派員としてフランコの反乱軍の支配地域に二度の潜入報道を試みる。一度目は入国直後に身分が発覚、からくも脱出したが、フランコ軍とナチスの協力関係を暴露し、一定の成果を収める。これによってフランコ軍の怒りを買ったケストラーは、二度目の潜入時に捕らえられ、死刑の宣告を受けて四ヶ月の拘留をされるもイギリス政府の介入で救出されることとなった。この体験は『スペインの遺書』(1937)として発表している。
イギリスでの短い休養を経てフランスに舞い戻ったケストラーは、第二次世界大戦勃発でヴィシー政権により反ナチス的人物と見なされ南仏のル・ヴェルネ収容所に収監されることになる。ケストラーはフランス外人部隊に配属されることによって収容所から解放され、まもなく逃亡してイギリスに帰還する。この経緯は『地上の屑』(1941)として発表されている。以後、イギリス軍に参加するなどして終戦までを送る。
『真昼の暗黒』(1940)では、ソビエトへの移住経験やスターリンの粛清を逃れて来た知人の証言を元に、スターリン体制の非人道的裁判を小説化している。この小説はソビエトへの幻想の未だ消え去らない西欧知識層に衝撃を与え、一般にケストラーの最大の業績とされる。この時期にケストラーはドイツ共産党に対して離党通告を送り、トロツキスト(広義での)に転向する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ロバート・キャパ#生涯
スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線、第一次中東戦争、および第一次インドシナ戦争の5つの戦争を取材した20世紀を代表する戦場カメラマン、報道写真家として有名である。「ロバート・キャパ」と銘打たれた初期の作品群は、実際には、親しくしていたゲルダ・タローとの共同作業によるものである。スペイン内戦で親交を持ったヘミングウェイ、アルジェで知り合ったスタインベック、ピカソら多方面の作家・芸術家たちとの幅広い交際も有名である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ゲルダ・タロー
1936年、彼女は初めて報道写真家の資格を得た。そこで彼女とフリードマンは計画を練った。彼らはニュース写真を撮影したが、それは架空の裕福な出身のアメリカ人写真家ロバート・キャパ(名前はフランク・キャプラにちなんだとされる)の作品として売られた。これは、当時のヨーロッパで強まっていた政治的狭量を乗り越えるには便利で、アメリカ市場で良い収入を得るにはふさわしい名前であったためである。この画策の秘匿は長くは続かなかったが、アンドレは自分の名前として「ロバート・キャパ」を使い続けた。ゲルダは仕事用の名前として、アンドレと親交のあった岡本太郎にちなんで、「タロー」を名乗ったとされる