なにをリアルと感じ、なにをフェイクと感じるのか
なにをリアルと感じ、なにをフェイクと感じるのか
リアルなタイムライン、フェイクなタイムライン
TwitterやFacebookのような一般的なSNSではなく、特定の分野に特化したSNSがある。自転車で走るようになってStravaというアクティビティ記録SNSを使いはじめた。最近ここでのつながりが心地よいと感じている。Stravaのタイムラインには基本的にその人のアクティビティが表示される。セグメント内でのタイムや期間内の走行距離を競ったりという要素もあるのだけど、それらも含め基本的にリアルな行動だけで構成されているところがよい。仮に承認欲求を満たしたければとにかく日々コツコツと努力をして数字を出せばいい。フォロワーを増やしたければ様々な場所を走ればいい。ひとりで遊ぶにしても先達の通った轍が役に立つ。フェイクまみれのタイムラインに辟易とすることもあるけど、Stravaのタイムラインを見るとどこか安心する。きっと今僕が知らないだけで、他にも色々な分野に特化したSNSが人々のリアルをつないでいるのだと思う。 「ChatGPT で記事をばんばん生成できるぞ!やり方をまとめたので売ります!」とは対極の世界だよな。 なにをリアルと感じ、なにをフェイクと感じるのか
リアルとフェイクは相対しているのか、という問題
リアル vs リアルではない
フェイクではない vs フェイク
という2つは直交する2つの軸のような気がする
そうか?
リアルでありフェイクでもあるという場合はありえるか?
リアルでもなくフェイクでもないという場合はありえるか?
リアルとは
リアルであることを「写実的」「具体的」「現実的」とするならば
その対義は「象徴的」「抽象的」「仮想的」になる
写実主義(しゃじつしゅぎ)、あるいは現実主義は、現実を空想によらず、ありのままに捉えようとする美術上、文学上の主張のこと。リアリズム(英:Realism)、レアリスム(仏:Réalisme)。
フェイクとは
フェイクであることを「偽物」「虚構」とするならば
その対義は「本物」「事実」になる
フェイクとファクトか!
もうちょっと現実的に考えると Strava のログにフェイクはありえるか?
で、
フェイクとは?
リアルとは?
難しく考えすぎか
関係あるかもないかも
驚きは共有され得る
驚嘆は共有され得ない
インターネットでは共有できるものはなんでも共有される
けれど共有できるものは限定されててそれは reblog の数だったり、 fav の数だったり、1km を何分で走るかだったり、一ヶ月に何km走るかだったりする。
インターネット、大抵は人から「スゴーイ」とか「狂ってるー」とか fav とか like とか rblg してもらえるようなわかりやすさから逃れられない。
なんでも計測できるインターネットにおいて、数字とは力
情報化時代では、すべてを測定する必要があります。 クライミングでは、難易度とスピードが重視されるようになりました。 最も難しく、最も高く、最も速く。
ソーシャル メディアの時代では、すべてを共有する必要があります。 結果として生じるカメラ、危険、テストステロンのカクテルは、あまりにも多くの場合悲劇的です. 優雅であることはめったにない。
計測可能な数値を扱うものは全て、おなじ地平の上に置かれる
これはソーシャルネットワークの時代であると呼ばれる現代のことを言っているのではない。まさにメスナーがアルピニズムの発展を体現していたその時代のことを指している。そこはすでにインフォーメーションの時代であり、ソーシャルメディアの時代であった。
人類が1マイル4分の壁を破るチャンスは2回あった。発展と停滞というループは歴史の中で何回も何回も、いろいろな場所で現れる。
世界はすでに十分小さくなっていた。ビクトリア朝の時代、初めて電信によって結ばれた世界は、すでに網の目のように覆われていた。それぞれの場所で起きていた熱狂は瞬く間に世界中に広がりあらゆる人たちの心を揺さぶった。
You can’t fake a sub-four-minute mile just as you can’t pretend to do an asana.
アーサナをするふりをすることができないのと同じように、4 分未満のマイルを偽造することはできません。
アンサーソング的ななにか
測定できるものは誤魔化しにくいからリアルに感じやすいけど、だからと言って測定できないものがフェイクかっていうとそんなことはないだろう。
むしろ自分が自転車を漕いでいるときに感じるなんとも言えない高揚感の方が、自分にとっては測定された数値よりも圧倒的にリアルなはず。
自分の中には生を実感したい欲望と、それを他者と共有して共感を得たい欲望があるみたい。
前者を後者に移行する時はどうしても大部分の情報が欠落してしまうので、上滑りしているように感じることがある。多分SNSとかでインスタントに共有しているうちはこの欲望が満たされることはないんだろう
「おくのほそ道」が「フェイク」(虚構)であり「リアル」(写実的)だとすると 「曽良随行日記」は「ファクト」(事実)であり「アブストラクト」(抽象的)ということになる なる?
『おくのほそ道』(おくのほそみち)は、元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行及び俳諧。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名な作品である。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という冒頭より始まる 『曾良旅日記』(そらたびにっき)は、河合曾良による1689年(元禄2年)及び1691年(元禄4年)の日記を中心とする自筆の覚書。その存在は古くから一部には知られていたが、芭蕉研究においては、山本安三郎が再発見して1943年(昭和18年)に出版し全貌が明らかになるまで、疑いの目で見られていた。出版以来『おくのほそ道』研究に一時期を画し、『おくのほそ道』本文における虚構、発句の初案、推敲の過程など、芭蕉の制作意識を考察する上で不可欠な資料となった。奥州行脚の史実を正確に伝え、芭蕉の俳文を解明する根本資料として重要であるとして、1978年6月15日に重要文化財に指定された。 「曾良随行日記」、味も素っ気もなくて、まるで自分が書いている三年日記を読んでいるみたい。何月何日、何時に出発した、何処から何里進んで、何処其処から何丁進んで、どこそこに寄って、とある家に宿をとった、みたいなことが書かれている。それと比べると「おくのほそ道」は本当に文学的。
「おくのほそ道」はおそらく一生かけて書き直してて、何回も何回も推敲を重ねてて、どうも虚実ないまぜに作られてる。なぜそうなのか。それはそっちの方が文学的だから。
毎日のことを真面目に日記に書こうとすると「曾良随行日記」みたいに、ただひたすら愚直に起きた事柄を並べ立てるしか出来ない。
ドナルド・キーンは「百代の過客」で、たいていの日記は退屈で全然面白くない、と言っていた。面白い日記はだいたい、後から書き直されている。脚色されている、と言っている。 日記というものに対し、著者(ドナルド・キーン)は資料性のみを求めているのではない。 たとえば「奥の細道」には「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」という有名な句があるが、同行の曾良の日記にはこの記述が見当たらないので、虚構ではないかという意見がある。
しかしキーン氏によれば、「事実からの乖離は、作品の永続的な全体的真実感を、かえって高めている」という。この観点から文学一般の存在理由を記した結論部分は、非常に説得力に富んでいる。
「(おくのほそ道に歌われているこの俳句の)事実からの乖離は、作品の永続的な全体的真実感を、かえって高めている」
このページで定義されている言葉で翻訳すると
「(おくのほそ道に歌われているこの俳句が)フェイクであることが、かえって作品の永続的・全体的なリアルさを高めている」
フェイクであることがリアルさを高めている
2016
ヴォネガットのなんともいえない皮肉的なボヤーとした雰囲気と、伊藤計劃の痛々しいリアルな描写の関係が、片や第二次大戦で味方からの爆撃という生き死にを経験していることと、片やたぶんオレと同じような、つまりヴィデオでみた戦争しか知らない、という環境で生きてきたにすぎないっていうその置かれている状況に反比例しているというのは、なんというか示唆的だなあと感じる。体験しているからこその抽象と知らないからこそのリアルという
2017
「スローターハウス5」では、何回も現れる「そういうものだ」という言葉によって、たくさんの死(ヴォネガットが序章でいうところの大量殺戮)が刻まれているんだけど、その有り様はなんともボヤーっとした感じで痛々しさを伴わない。ごくあたりまえのもの、あたりまえにそこにあるものとして死が語られている。人間だけでなく毛皮になった動物や淀んだ水に対しても平等に死について語られている。
「虐殺器官」が「フェイク」(虚構)であり「リアル」(写実的)だとすると なる?
時計でさえも五感によって認識できる形に置き換えているものに過ぎない。つまり偽物。フィクション。良く出来たまがいもの さて、わたしたちは残念ながら毎日の中でその日に起きた事柄や湧き上がった感情や考えたことのどれがその後重要な鍵になるか見極めることは不可能だ。例えるなら真冬から少しだけ春に近づいた日々に木々の色合いがわずかに変化する様子をその日一日だけで見極めることが出来ないということ。数ヶ月の後に見比べたなら明らかに季節の変化は木々の色を変えるけども毎日の中でそれを知るのは困難だ。小学生のころアサガオの絵日記の宿題があった。毎日その様子を絵に描くのだが、毎日にそんなに変化はない。子供心にもそれだと面白くないと思ったのか少しずつデフォルメして描いていた。気がついたときには実際のアサガオより絵日記のアサガオの方が大きく成長した。そういうものだ。
おくのほそ道、松尾芭蕉に同行した河合曾良の日記が残っている。曽良随行日記と呼ばれている。書かれているのはどこそこの誰々とあった、何を食べた、どこそこの角を曲がりどこそこから何里の進んだ、というものだ。そこにはなにも面白いことはない。普通に日記を書くということはそういうことになるのだろう。自分自身の三年日記を読んでいるように感じた。正岡子規の仰臥漫録や夏目漱石の修善寺日記などというのはごく普通のわれわれには書けない。百代の過客でドナルド・キーンは大抵の日記は実に退屈で面白い日記はだいたいにおいて書き直されている。脚色されていると言っていた。