鑑真
鑑真
西に行った玄奘、東に行った鑑真
広めるための行動
鑑真は出家後の名前苗字はわかっているが名前は不明
中流階級の家庭の出自と思われる
鑑真の出身地は国際色が豊かな所だった
貿易の拠点
遣唐使もそこに立ち寄る
14歳で仏像を見て感動して出家した
無則転の搭乗前 は中国は 道教推しだったが付属店で仏教推しに代わった
鑑真は勉強して 26歳で故郷に帰る
50歳の手前で名声を確立
経典を暗記して講義をしたり お寺や仏像を建てたりした
弟子も 有名な お坊さんになった
お金を集めて運用する経営者としての才能があった
鑑真55歳の時日本から2人の 僧侶がやってくる
とは日本で戒律を作るために鑑真が呼ばれた
鑑真は戒律の専門家実務家であった
戒律の戒の方は 一般人が守るべき道徳規範のようなもの 破っても罰はない 僧侶の集団 =サンガ
律はサンガのルール
破ったら山サンガから罰せられる
仏教は苦しみから逃れるため煩悩を消すための修行をする集団
三宝のひとつはサンガ
さんがには守るべきルールがある
しなくてはいけないこと、してはいけないこと
三宝
仏 もともとはブッダのことだったが仏像などに変化していく
法 釈迦の言葉お経
僧 サンガ
仏、法は初期からかなり変化しているが そうサンガはあまり変化していない
シャカは一人で悟りを開いたが でしたっちには 共同で修行して より早くS取りに到達して欲しかったと思われる
教え合うことによる 効率化と 生活面も含めた相互扶助
防衛や布教などにも有利
サンガの存続のためには 民衆からのお布施をもらえるように尊い存在であり続けなくてはいけない
最も重い処罰はサンガからの永久追放
と戒律を守ることによって逆に戒律から 守られる というか生活を保障してもらえる
戒律やってはいけないほうのやつで200個ぐらいある
厳しい四つの帰りつ
性行為の禁止
盗美
殺人
嘘の禁止
自分が悟っていると嘘をついて自白した時は厳しい処罰の対象
他の 僧侶よりより多く寄付を集め 民衆をだます行為を棄権していた と思われる
尼さんは8つで多い
各禁止事項にそれが作られた理由も 書かれている
やらないといけないこと
出家の儀式 受戒
本来は一般人が僧侶になる唯一の方法
サンガのレビューの方法
食品の管理の日数
三が内での人間関係のトラブルの解決方法
中国の仏教は皇帝の 支配との折り合いをつけたものになっている
ルールを守ることに対する人間の反応
すごい人と思うカリスマ性を感じるか
変なことをやっているかと思い呆れるか
出家の儀式
受戒
戒律を授けられる
鑑真、最初は10の戒律を14才であたえられた
その他作法などで守るべき ルールを70個ぐらい 授けられている
トイレの仕方などもある
18才、菩薩戒
具足戒
21才 ぐそくかい
250ぐらいの戒ある
出家のために必要、認められたものでないと 授けられない戒
鑑真は他の人に戒を授けるかいしだった
4万人ぐらいに戒を授けたと言われている
鑑真は他の宗派についても学習していた
と日本には仏教が伝わってはいたが 戒律やサンガが不十分な状態だった 2人の僧が日本から鑑真を訪ねてきた
奈良時代
仏教を政治に導入したが、サンガの導入案ができていなかった
公務員的な感じで 僧侶を 配置した まずは仏像と教典 を導入した
戒律もうまく機能しておらず 僧侶が 罪を犯しても普通の法律で裁かれていた
出家、受戒 世界的に見れば ちゃんとできていなかった可能性がある
日本ではギョーキが人気だった
国の統治下にない、在野の僧侶
国家としては、これをコントロールしたかった
奈良の興福寺 指導で鑑真の招聘の動きになった
鑑真の招聘に対し、国からの予算は出なかった
唐に渡ってから10年、中国の5人のかいし落とした その後鑑真に会う
えし江師、鑑真より過去の高僧
生まれ変わるという予言
輪廻な中で転生し、衆生をすくう
あれ聖徳太子は 絵師の生まれ変わり とうかんずいは信じた
ながやおうは中国に袈裟を1000着寄進した
鑑真は弟子に日本にいく人はいないか問いかけた
しかし弟子たちは無言だった
ととのった環境で悟りに至るのが本来の仕事
鑑真本人が行くと言い出し、弟子20人も同行
日本への渡航 12年かけて、5回失敗したが6回目に成功
密航だった
資金調達は自前で中国からも日本からも出ない
1回目は仲間割れで役所に密告された
2回目は100人以上の集団だが遭難
3回目は何時の出国を反対する住民からの 役所への密告
4回目はより南からの出国予定だったが鑑真の弟子れいゆによる密告、鑑真は怒った
5回目は遭難、島に漂着
ようえい、しょうげんが亡くなる
ふしょうも離れた
鑑真も失明
三年かけてようしゅうに戻る
20年ぶりに遣唐使が派遣
65歳
遣唐使は負傷と接触していたと思われる
海岸人の情報を知っていた
げんそう皇帝に鑑真の来日の依頼をした
6回目、四席のうち 一石目の船に雁字が乗ろうとしていたが 役所のガサ入れを考慮して一度降ろされサブリーダーが乗っていた 三席目の船に乗った
最初から同行してきていた人は2人だけで200人以上の弟子は離れていった
時期的にはとうの末期で 最後のチャンスだった
東大寺の大仏 の目を入れる儀式 などが行われるように 仏教への熱が高まっている時期の来日だった
藤原仲麻呂が有力なパトロンになる
東大寺に 滞在 している間に 有力な権力者が多数訪ねてくる
日本の教典の校正を行った
受戒、最初は聖武大乗天皇
菩薩戒
1度行基から菩薩戒をうけていたがうけ直した
440人ぐらいが戒律をうけた
見習いのしゃみへ受戒したが。すでに高位の僧侶は賛否があった
東大寺に新たな戒壇院を作った
太宰府の近くなど、3戒壇を作った
正式な戒壇はそこでしかうけられない
引退し、平安京内に唐招提寺に
戒律をまもるための修行の場
サンガを作ろうとした?
763年、来日から10年、76歳でなくなる
鑑真が亡くなったことは遣唐使を通じて故郷にも知らされる 唐招提寺に鑑真の像がある
ランジンが亡くなる前に弟子が作ったもの
何時の弟子達 鑑真の行動を 記録したものや 唐招提寺 を引き継いだものなど
天台宗、鑑真が日本に導入した
最長は鑑真の経典を基に天台宗を学んだ
漢方薬なども導入
医者でもあった
戒律は定着しなかった
朝廷は 僧侶を認める基準の厳格化だけしたかった
サンガによる自治も求めていない
それ以降、日本の仏教は戒律とサンガがない