もずちゃんが“てつがく”に触れてくれて(ry
雑記メモからの抜き出し。やや長くなってしまったので別ページに。もずへのラブコールと、自分の持つ精神世界について。
もずちゃんが“てつがく”に触れてくれて本当に嬉しいの限り。自分に無い物に惹かれるって言うのはよく聞くけど、もずちゃんなんて理系の化学で音楽やっててなんてバリ文系の演技と表現についてとかの自分とまるで正反対。それに最も彼に惹かれる要素のはあの精神世界の豊かさだな。彼の内側に竦むカオスというかコスモというか。自分はそれに欠けるからこそそれを開拓して文字達と混沌や小宇宙と踊るのを楽しめる。彼と互いに刺激し合えるなら、それはとても嬉しいな。
と言っても、私の精神世界はただの二つしかないのです。夏の海の景色と、日常という徒労。今の所ただそれだけ。
夏の海の景色というのは、まさにもずちゃんに作曲をお願いして作詞は受け持ったあの「ラストサマーバケーション」がまさにそれ。あの曲は本当に私の思い描く夏も、我が精神世界の「冒険活劇」も、2年後に予定している旅のイメージも、全てが詰まった一曲で、夏の曲で一番好きな曲、って聞かれたら「それはラストサマープランだ。」と答えざるを得ないほど、とにかく最高だった。また一緒に曲作りたいな、一方的に投げやりなお願いになってしまっていたから、今度はテーマを共に分かち合って、お互いの言葉で遊びながら。
話を戻せば、「冒険活劇」それがこの精神世界のテーマであるんだろうね、後に触れる日常との完全な対比になってるんだけどさ、私の“てつがく”の一つの大きな命題である、「意味」が対比の軸になってるんだけど、「大空を覆い尽くす蒼と海原を広げる碧」「それを分つのは水平線だけ」「その景色をただ横目に過ぎ去っていく」「ただ日常から逃げ出して、意味を探しに往く」そんな精神世界が一つ、「冒険活劇」
そしてもう一つの精神世界「喜悲劇」あるいはそれは「日常劇」とも言えるもので、これはチェーホフ、或る時代に生きた劇作家の作品達に強く影響を受けている。既に何度か説明をした事があるので読んだ事のある方は読み飛ばしてもらって結構だが、今回は一番上手くまとめられたので、もう一度だけ失礼する。
彼の作品は、トルストイの様に巨大な海である宇宙の存在と真っ向から対峙する様なスケールであるわけでは無く、ドストエフスキーの様な息詰まる心理の葛藤も、壮大な形而上学もない。とりわけ作品の表層を覆う佇まいは静謐で、文体はとてもシンプル、その語り口は悲憤慷慨するでもなく慨嘆するでもない穏やかそのものである。彼の物語の中、その「日常劇」の中で、人生そのものに打ちひしがれる人々に愛情あふれる視線を注ぎ、日常にかまけるありきたりと言えるその人々の「日常劇」を慎ましやかに優しく見守った。彼はとりわけ「愛すべき作家」と呼ばれたのも納得である。
だが、それだけじゃない。だってトルストイにドストエフスキーだぜ?ロシアの文学は「社会の教科書」とも言われるほど崇高なものだった。その崇高な文学を、日常という平野に引きづりおろしたんだぜ、彼は。異常だよ。さすがロシアの作家ってわけで、「愛すべき作家」では終わらない、もっと壮大な、そんなものではない、彼の作品にガッパリと口を開けるその深淵は、その混沌/カオスは...。
ところで、一旦注釈という形になるが、彼の描いた脚本は、「喜悲劇」と呼ばれている。単に形態がそうだから喜悲劇と呼ばれているんだけどさ、私はそれに意味を見出したい。追求して思索したい。なんせてつがく者なんでね。
分解して考えようか、喜劇、これはなんだろう。一般にはハッピーエンドで終わる劇、またはコメディー。みたいな感じの使い方だ、基本それで良いんだけどさ。でも俺は、喜劇というのは私的な解釈では「意味」だと思っている、それ即ち「センス」だ。それはつまり「ナンセンス」の逆という意味で、科白一つに表情一つ、衣装や配役舞台のセット。とにかく一つ一つの意味を味わい、表現する。そこにエッセンスかスパイスかの笑いは停滞させないために少々って所だ。
じゃあ、悲劇は?基本的にはさっきの逆で、バットエンドの劇、またはドラマ、だ。しかし私的な回答だとそれは、「唯一の規範の元で存在する世界」なんだよ。ちょっと抽象的?とにかく、何かルールに縛られたお話って事。これはまあ、見なきゃわかんないかもね。わかり易い例えというか言葉遊びだけど、「狂人」ってさ、ただの頭のおかしなひとの事を言うんじゃないんだよ。「狂人」はね?他とは違う、「自分のルール」を持っているからこそ、「狂人」足り得るんだよ。だからこそ、俗にいう「悲劇のヒロイン」ってのは、「狂人」に見えるもんなんだよ?ちょっと駆け足ですまない。
で、だ。本題の「喜悲劇」だよ。「意味/センス」×「唯一の規範の元で存在する世界」。いったいどんな世界なんだろうね。まあどちらかというとこれは広義の喜悲劇ではなく、むしろチェーホフの、彼の「喜悲劇」の所ではあるんだけどね。
話を戻して、彼に巣食う「混沌/カオス」は、
それは、「無意味」の様なものだろうか。
とにかく、この劇では、様々なものが「意味」を見失っている。それは喜劇で大事にしていた、「科白一つに表情一つ、衣装や配役舞台のセット。とにかく一つ一つの意味を味わい、表現する。」それの全くの逆だ。
代表的なもので言えばそれは、“届かない”手紙だ。彼の劇では必ずと言って良いほど、手紙が“届かない”。手紙とは本来、コミュニケーションの一つの形である。手紙が持つコミュニケーションの形などの、「意味」を完全に見失っている。
それは、「中心の偏在」の様なものだろうか。
「大きな物語」が崩壊した世界で、単一の意味を持てなくなったそれぞれが、取り繕えなくなるお話。ただそこに意味はなく、全て徒労の劇である。
自身の周りの全てのあらゆる意味(中心)が瓦解する
私を含めて 中心の崩壊 中心の遍在
動じない心(無関心)
自身が了承している意味が瓦解する
精神の麻痺という冷静さ
それは、「強いパトスへの恐れ」の様なものだろうか。
彼自身の兄の死にも帰するらしいが、とにかく徹底的に死から距離を置く。
現在から過去を振り返る形にしたりするなど、無限の距離を生じさせ、とにかく遠ざける。
それは、「続き続ける人生の一幕でしかない」
チェーホフの劇では悲劇は舞台裏で起こる。「ワーニャ叔父さん」って一番好きなタイトルでもあるけど、歳になるまでせっせと働いて実家に金を仕送りしていたが、結局それも全部クソみたいに浪費され続けていた。未来ある若者なら挫けずに次の人生を進められる、がワーニャ叔父さんはもう先もない、かと言って仕事を辞めれば路頭に迷う、絶望しても打ちひしがれても、それでもせっせと「日常」を続けるしかない。彼にとって生きていく事は死ぬより辛い事だ。ここで幕は下り、彼が地獄よりも辛いその「日常」をおくるのは、舞台裏でのことである。元は舞台裏で拳銃自殺をしていたが、改作され、自殺さえも封じられて「生きていく事」を強要される。
確かに滑稽な日常劇に見せかけた、「意味」の瓦解。全ては虚しい、そこに意味はない。その現実の“いびつ”さ、滑稽さ。日常という徒労の全てが詰まった様な。
そんなまさに「冒険活劇」とは対比的な、「喜悲劇」を、私は愛している。もちろん、大嫌いだ。でも、だからこそ、大好きなんだよ。わかるかな、というか、伝わるかな。そのクソッタレのような「日常」があるからこそ、「冒険」が映え、光り輝く「冒険譚」を語る毎に、「日常」の増えるくすみは増す一途。
もちろん嫌いで、クソッタレだけど、だからこそ美しく、だからこそ魅力的だ。それこそがやっぱ、ロマンってやつかな。
私、おとの精神世界「冒険活劇」と、「喜悲劇」についてのお話でした。
そうそう、余談だけど、というか、本当はこれが先に言いたかったんだけど。
私はやはり人間に対しての感情が歪んでて、恋愛感情に関してもそうだったけど、「友情」、あるいは「友だち」ってのもよくわからなかった。関係を表す時は決まって、知り合い、だとかクラスの人だとか言ってた。それくらいに「友だち」って言葉から距離を取っていた。
でも、もずとの関係を聞かれたら、今はハッキリと自信を持って、「友人」と答える事ができる。
人間だのなんだのどうだって良い。一人の友人として、もずちゃんとして接する事ができるよ。