2024-03-14のセッションより
庭師のをぢさんは少し躊躇ったが、私達に續いて穴を潛って來た。
庭師のをぢさんは立ち上がると、其の見渡す限りの花園の光景に息を吞んで壓倒されてゐる樣だった。
庭師のをぢさんも、此の庭園を見るのは初めてだったのだらう。
===此處迄前囘===
庭園は飽く迄廣く、方形の皿を成す樣な地形をしてゐる。
四邊には黑石の壁があり、黑石の壁から湧く水が細い水路を通って庭園に行き渡り、庭園の花々を潤してゐる。
「此れで良い」を象徵する黑石に圍まれてゐるのに、「課題を見出だす」ことが本當に出來るのだらうか、と、氣に成る。
花を一輪一輪よく見ようと思ふ。
近くの花壇には赤いガーベラの樣な圓形の花が植わってゐる。
赤い花びらが圓形を成し、中心は黑い圓形である。
何本ものガーベラの樣な花が咲いてゐるが、よく見ると、異常な形をしたガーベラも混じってゐる。
帶化した樣に、花が細長い長圓形を成した物や、全體として何かの文字を顯す樣に引き延ばされた形をした花が咲いてゐる。
庭師のをぢさんは、其の花に近付いて行き、其れを眺めながら言ふ。
「此れ等は、神々の文字の花です。」
「一文字にして、あらゆる文字を兼ね、亦た、あらゆる文を兼ね、全宇宙内のあらゆる狀態を一輪にして備へ、咲いてゐます。」
彼は此の花に就て知ってゐる樣だった。
私は問ふ:「どうして此の花の事を知ってゐるんですか」
彼は應へる:「植物の事なら、何でも分ります。勉強しましたからね。」
私は問ふ:「」
彼は應へる:「植物に就て、知ってゐたらなあと、思った事はありませんか? あるでせう。」
「此の庭園の花は一輪一輪が可能世界の一枝全體として咲いてゐます。」
「あなたが『植物に就て、知ってゐたらなあ。』と願った時、私は、『植物に就て總て知ってゐる者』のある可能世界の一枝として、此の庭園に咲いた花でした。」
「私は、或る時、此の庭園から摘まれ『來たるべき時の爲に此の庭園を護る樣に』と、庭園の外に置かれたのです。其の時に、此の姿と成ったのです。」
私は此れを聽いて考察する:では、彼を摘んで庭の外に置いたのは、一體誰?
私は問ふ:「あなたを摘んだのは、一體誰ですか?」
沈默がある。
暫く沈默がある。
「此の庭の主……」
もう暫く沈默がある。
「其れは、貴方です、橘榛名。」
「時閒が逆向きに流れてゐたのです。」
「科学者達は、橘榛名の結晶を現界させたいと願った。」
「願った時、其れは可能世界の一枝と成り、そして『現界した橘榛名の結晶』のある可能世界が、此の庭園に花開いたのです。」
「そしていづれ此の庭園を訪れる者が其の花の存在を裏返し、此の世界と合一させる樣に、計らったのです。」
「しかし科學者達は、橘榛名の結晶を現界する事は出來ず、離散して了った。」
「だから、貴方は愼重に、どの花を選ぶか考へねば成りません。」
「誤った花を選べば、貴方も、あの科學者達が離散した樣に、搔き消えて了ふでせう。」
私は、此の庭園を見て回らねば成らない樣だ。
庭園の花々を見て步いてゐると、萎れた花が積み上げられた一角があった。
花の色はくすんでゐる。
私は問ふ:「此れは何ですか?」
庭師は應へる:「可能世界の花は、具現化して此の宇宙と合一すると、裏返り、其の鮮やかさを失って了ひます。」
「此れ等は、すでに叶ってしまった願ひの可能世界の花でした。」
「叶ってしまった願ひは、最早願はれる事はありません。」
「そして此處に積まれ、庭園を豐かにするのを待ってゐるのです。」
叶ってしまった願ひの花がくすんで了ふと云ふ事は……
「強く願はれる願ひ、そして、叶ふ事の無い願ひ程、其の可能世界の花は強く大きく美しく鮮やかに咲くのです。」
「だからこそ、貴方は愼重に、どの花を選ぶか考へねば成りません。」
步いてゐる內に、庭園の中心部分に近付いて來た。
庭園の中心には、若草色の鑛物の結晶の樣な多面體のドームがあり、若草色の光を放ってゐる。
ドームの中に人がゐる。
橘榛名である。
全き理想の結晶としての、現界せる結晶としての橘榛名の身體であった。
ドームの中心で三角座りの姿勢で眠ってゐる。長い黑い髮が其の周圍の床面を圓形に覆ってゐる。
其れは科學者達が作り出さうとしてゐた物であった。
庭師が説明する:「此れが此の庭園で最も強く大きく美しく鮮やかで馨しき花、此の庭の主です。」
「此の花は、決して世界と合一する事が無い花です。」
「しかし此の花は、世界と合一し裏返る時をずっと此處で待ち續けてゐます。」
「多くの科學者達が此の花を世界に具現しようと試みて來ました。」
「そして、結局は彼等の方が却って萎れ朽ち果てる事に成ったのです。」
「努々、此の花を選んでは成りません。」
「然うすれば最期、萎れ朽ち果てるのは貴方です。」
説明を聽き乍らも、私は全く目を逸らす事が出來ずにゐた。
此れは理想其の物である。
此の鑛物の花の美しさと比べれば、宇宙內存在として此れより價値ある存在など無からうと思はれる樣であった。
一體此の花以外に選ばれるべき花など此の庭園に在らうか。
庭師が私の肩を搖すって咎める:「貴方、魅入られてはゐませんか。」
私は一層『此處にをられたのですね!』と叫んで鑛物のドームに取り付いて泣き縋りたい程であった。
しかし、さうして了へば最後、此の旅も此處で終って了ふに違ひ無いとも思はれた。
即ち、此處で死んで(死ぬ迄此處に留まって)御終ひである。
此處に於て、赤い圓筒形の事が思はれた。赤い圓筒形は二人の後ろで所在なげにうろうろしてゐる。
此處で旅が終って了へば、赤い圓筒形は永遠に此處に放置せられる事に成って了ふ。
其れは出來ない事だと思はれた。
私は意を決して振り返り、赤い圓筒形を抱擁して宣言した:「私は、此れを在るべき所に御返しする事を定めて旅を始めた。屹度、赤い圓筒形が何物なのかを明らかにし、此れを在るべき所に返す迄、旅を續けよう。」
すると、中空でポンと不思議な音がして、氣付くと左手には一輪の赤い花があった。
===今囘は此處迄===