弔いと氷川きよしとPING
氷川きよしが亡くなったおばあちゃんにサインをくれたという話。
また生まれ変わってもお会いしたい
不覚にも半泣きになってしまった
この話はいくらでもうがった見方はできると思う
起きていることはとても些細
なぜ自分に刺さってしまったのか?
故人へのやさしさだからなのか?
生きているおばあちゃんへのサインならグッと来なかったと思う(それはただのファンサ)
氷川きよしだからなのか?
菅総理とかがやっても…どうだろうか
歌手とファンという関係が重要なのかな
わざわざ買ってくれて、というのもポイントな気がする(心遣いできる人だなーと思った)
メッセージの内容が重要なのか?
自分は生まれ変わりとか信じてないけど、輪廻転生はお話としてはかなりぐっと来てしまうところがある 見返りのない優しさだからか?
冷たく見れば自己満足ではあると思う
しかし折り鶴を折るとかだと感動がまったくない
自分はひねてるから「結局自分の満足のためでしょ」と思ってしまう。けどなんというかこの話はそもそも客体の存在がない気がする。一緒に死者を弔うという感じなのか?
なんか、見返りが絶対ない優しさとか、その人がファンのことを普段どう考えているかとか、死者のことを想うというのが自分にとってかなり大事なことなのかもしれない。
純粋なものを見ると人は泣いてしまうけど、人によって純粋に感じるものが違うのかも
青春を見て泣いちゃうみたいな人
リアリストぶってると封じ込めがちな、本当は大事にしたい感情に気づいてしまうから?
「メッセージ」が「祈り」であるというのとつながりがあるかもしれない それがうまくゆくか、ゆかないか、第一相手は返事をしてくれるのか…。最初の一言を発するとは、勇気をもって、得体を知れない他者に呼びかけるようなものです。それはコミュニケーションとは呼べず、むしろ一方向的なトランスミッションと呼ぶしかない、願いを含んだ一つの賭けなのです。
この話の発端は「勇気を出して祖母の話を伝える」ところにある
気持ちのこもったPONGが来るというのが、自分にとって貴重なものであると感じた
普段から考えていないとこのメッセージは書けない
「通じる」「届く」ということに自分は価値を感じているみたい
以下自分の宗教観
なんというか、人が死ぬとその人の形にぽっかり穴が空いたようなイメージがある 穴は時間の経過とともに埋もれていってしまう
ついには人の死が完全に忘れ去られる
棺に花を入れて埋めるというのは、その穴を埋めようとする行為だと思う
自分は弔うというのは、この穴を見つめる行為だと思う
埋めてしまう、焼いてしまうでいいのだろうか
実のところ、ルックバックも、すごい作品だとは思うけど、宗教観が合わないと思った 前向きなメッセージだと思う
創作をする人たちにとって呪いを解くなにかだと思うけど、自分は呪いを解かれたくない
死の対義語は生だけど、違うのではないか
一期一会を大事にする的な昔ながら~のやつあるけど、それがかなり大事なのではないか
人が死ぬというのは、メッセージパッシングが不可能になるということ
だからこそ死の逆を行くと、PINGが通っているこの瞬間を大事にするということ ファンサというのはPINGなのだ
一括でシステマチックになにかやるのではなくて、一つ一つの繋がりを純粋に思えるのかも
好きなアーティストが死んでしまうと、作品に対する捉え方は変化してしまうと思う
インターネットのホームページの死(リンク切れ)と、人の死は似てそう