沈黙を破る
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沈黙やよそよそしさ、まずそれを誰かが破ってこそ、コミュニケーションは始まります。それがうまくゆくか、ゆかないか、第一相手は返事をしてくれるのか…。最初の一言を発するとは、勇気をもって、得体を知れない他者に呼びかけるようなものです。それはコミュニケーションとは呼べず、むしろ一方向的なトランスミッションと呼ぶしかない、願いを含んだ一つの賭けなのです。
自分はこの「最初の一言」が苦手というか、店員に声を掛けるのですら結構怖いと思ってしまう
とはいえ、声を掛けて後悔したことはほとんどないし、勇気をかけて声をかけて良かったと思うことのほうが多い
昔通っていた床屋、お互い必要事項以外一言もしゃべらないのでずーっと黙りながら髪切ってもらってたんだけど、一年後くらいに意を決して話しかけたことがあった(普通に話せた)
お互い会話が好きじゃない可能性があるので難しいところだけど、沈黙というのは気を使って維持されるものでもある
沈黙を維持する
服屋で話しかけられるのは明確に嫌。これはなぜだろうか
コミュニケーションを取りに来たわけではない
話しかけられるのが迷惑という人もいる
関係やその時の状況による
放っておいてほしい、というシグナルを失礼にならずに出す方法がない
作品を発信する
作品を作るときというのも、見てもらえるのかとか、メッセージを受け取ってもらえるのかを気にしながら公開する
というか「自分に気づいてほしい」みたいな、コミュ障ゆえの動機で作品を作ることすらある
これはメッセージ性以前の幼稚な願いかもしれないけど原動力の一つではありそう
ツールを作るときはどうだろうか
「こういうものが欲しいよね?」というメッセージが込められていることが多い(大半はPoC)
考えてみると、自分の活動は発信という形を取っていることが多い 放送部
壁新聞
ゲームや楽曲や絵の公開
見返りに反応を求めてしまうところはあるかもしれない
けれど、沈黙やよそよそしさを打破する「最初の一言」なのかもしれない
そう考えると、既に成熟してワイワイしているところというのは自分の居場所なのかどうか分からないな。
沈黙している場所のほうが、自分に役割を見いだせると思っているかもしれない。 賑わいを作り出したい
何故かはわからないけれど、自分の行動が起点となって賑わいを生み出すということに喜びを感じる
これは自分の行動原理かもしれない
他人の生み出したコミュニティや空間に入って受動的に楽しむのは何か「借り物」だと思っているのかも?
ティアのような「自分のブースを作れる」ものはその限りではない
自分が作ったものがそばにないと落ち着かないのかもしれない
海外に少し行く機会があって、ほんとに自分から言わないと何も始まらないことがだんだんわかって「トランスミッションの強度」を高めたほうが生きやすいなと思ってきた
「どう見られてしまうか」という恐れを一旦捨てて、相手に委ねるというのも大事なことかもしれない
例えばその辺の店に入って好きなものを食べる、というのも、海外に行くくらいに勇気が必要なことなんだよな
その辺のハードルが少し下がった(自分を守ることに諦めがついた)のは良かったかもしれない。一時的かもだけど