ソニー
今の話
クリエイティビティとテクノロジーの力で、世界を感動で満たす。
過去の話
井深・盛田
東京通信研究所
終戦直後に疎開先から上京してきてつくった
ラジオの改造・修理
炊飯器
東京通信工業
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会社設立の目的
一、日本再建、文化向上に対する技術面、生産面よりの活発なる活動
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経営方針
一、不当なる儲け主義を廃し、あくまで内容の充実、実質的な活動に重点を置き、いたずらに規模の大を追わず
一、経営規模としては、むしろ小なるを望み、大経営企業の大経営なるがために進み得ざる分野に、技術の進路と経営活動を期する
一、極力製品の選択に努め、技術上の困難はむしろこれを歓迎、量の多少に関せず最も社会的に利用度の高い高級技術製品を対象とす。また、単に電気、機械等の形式的分類は避け、その両者を統合せるがごとき、他社の追随を絶対許さざる境地に独自なる製品化を行う
一、技術界・業界に多くの知己(ちき)関係と、絶大なる信用を有するわが社の特長を最高度に活用。以(もっ)て大資本に充分匹敵するに足る生産活動、販路の開拓、資材の獲得等を相互扶助的に行う
一、従来の下請工場を独立自主的経営の方向へ指導・育成し、相互扶助の陣営の拡大強化を図る
一、従業員は厳選されたる、かなり小員数をもって構成し、形式的職階制を避け、一切の秩序を実力本位、人格主義の上に置き個人の技能を最大限に発揮せしむ
一、会社の余剰利益は、適切なる方法をもって全従業員に配分、また生活安定の道も実質的面より充分考慮・援助し、会社の仕事すなわち自己の仕事の観念を徹底せしむ。
経営部門
一、 サービス部
...
二、 測定器部門
...
三、 通信機部門
前述2部門は、大体会社の維持経営を分担する部門であるが、該当部門は当分の間、新しき特殊通信機の試作研究を分担し、今日よりも会社の明日に備え、将来の大飛躍をここに期待し得るのである。... そのうちの主なるものを次に簡単に説明すれば——、
イ、 時分割多重通信方式 ...
ロ、 簡易重畳(ちょうじょう)電話装置 ...
ハ、 録字通信機 ...
ニ、 プログラム選択受信方式 ...
ホ、 その他特殊部品 ...
戦後
しかし、せっかく買ってきた真空管も、規格がマチマチで、100本中、50本使えれば良いという代物ばかりだ。これでは能率が悪い。仕方がないので、会社から測定器を持って行って店先で検査をやって、店の者から嫌がられたりもした。 工具もすべて自分たちの手製で、ハンダごてはむろんのこと、ドライバーは焼け跡からオートバイのスプリングを拾ってきて作る、コイルは買うことなど思いもよらずすべて自分たちで巻く、電話ケーブルの中身は試作品や試験配線に使うといった案配だ。
(すげえな)
電気ざぶとん
"電気ざぶとん"は、井深が考案した新円かせぎの冬向け商品である。これは、2枚の美濃紙の間に細いニクロム線を格子状に入れて糊付けし、これをレザークロスで覆ったものだ。石綿も、ましてやサーモスタット(温度を一定の範囲に保たせるための自動調節機構)といった気の利いたものは入ってない恐ろしげな商品である。さすがに、これには東通工の名前を付けるのは気が引けて、"銀座ネッスル(熱する)商会"という名を井深が付けたが、物がない時代だけにこれが売れに売れた。
社員の家族総出で、ミシンをかけたり、コードをかがったりの下請け作業である。これによって新円を随分かせぎ、下請け代金を新円でもらった家族も皆大助かりであった。しかし、その分大事な毛布を焦がしたとか、ふとんに焦げ跡ができたという苦情も多く、電圧の上がる夜中など火事を起こさないかと作ったほうがヒヤヒヤしたものである。
😅
テープレコーダー
この実験を行ったのが、御殿山のバラック工場の隣に新設したばかりの"山の上工場"。ここには、まだ誰も引っ越しをしていない。テープを作るのには打ってつけの---広い上に、床がまっさらできれいだった---場所である。木原は、早くテープを作りたい一心で、その床の上にテープを張り付けスプレーをかけた。いっぺんで床は真っ黒けだ。樋口から大目玉を食らってしまった。
ソニー
そして1958年。「ソニーブランドの東通工」と呼ばれた東京通信工業は、社名そのものを「ソニー株式会社」にしたのである。(第1部第7章第4話参照)
発音しやすい世界共通の四文字。井深が書いた設立趣意書のスピリット「自由闊達」の流れを汲み、小さくても、はつらつとしたやんちゃ坊主という語源。「電機」など特定の事業の意味を含まず、創業者の名前にも縁はない。この社名は、当時の日本では大変異質なものに受け止められたが、そこには、井深や盛田の、未来を見通した先見性があったのだ。 「買ってよかった、使ってよかった、捨てる時も満足、次もソニーの商品を買おう、とお客さまに思ってもらえるモノづくりをしよう」「心の琴線に触れるモノづくりをしよう」
この時、盛田たちが一番苦心したのは発音だ。井深はアメリカに行くと“イビューカ”と呼ばれてしまう。それで、いろいろ考えた結果が「SONY(ソニー)」というわけだ。音「SOUND」や「SONIC」の語源となったラテン語の「SONUS(ソヌス)」と、小さいとか坊やという意味の「SONNY」——これは、自分たちの会社は非常に小さいが、それにも増して、はつらつとした若者の集まりであるということにも通じる——を掛け合わせて作った言葉である。これで決まった。 盛田は「SONY」の名前を付けた製品を持って、勇躍アメリカに渡って行った。
「これまではラジオの時代だったが、これからはテレビに重点を置いていかなくてはならん」。社長の井深の一言で、ソニーの技術陣はポータブルテレビに取り組み、1960年5月に8型の白黒テレビ「TV8-301」を世に出した。「我々の普段の生活は、いつも豊かな色彩に取り囲まれている。それなら当然、我々のテレビにも色が付くべきだ。色なしのテレビというのは、不完全極まりないものだ」。白黒の次はカラー、というのが、テレビを手がける者なら誰もがめざすところであった。これは、井深たちにとっても同じことだ。
1968年4月15日、銀座ソニービルにおいて「トリニトロン」の発表会が行われた。内外の記者団からも予想以上の反響を得て、発表会は無事に終わるかに見えた。ところが、井深が、ここでソニー関係者の誰もが想像もしなかった発言をした。「発売は10月中、年内に1万台の量産を行う」と言うのだ。「冗談じゃない」。居並ぶ技術者たちは、わが耳を疑った。まだ、やっと10台程度の試作品ができたばかりというのに、これから半年の間に量産まで持っていくのは至難の業だ。「このオヤジめ!」。吉田は思い切り、井深の顔をにらみつけた。
そんな吉田たちの心中を知ってか知らずか、井深は1人、晴れ晴れとした顔をして澄ましていた。しかも、その顔には、「お前たちなら、きっとやれるさ」と書いてあった。
(イイ話みたいに書いてあるが割と無茶苦茶なことを言っている笑。現場は大変だろうなぁ)
トリニトロン
ビデオカセット
8ミリビデオ
「開発した人が設計、製造すべし」
パスポートサイズ
放送業務用VTR
ウォークマン
「この製品は、1日中音楽を楽しんでいたい若者の願いを満たすものだ。音楽を外へ持って出られるんだよ。録音機能はいらない。ヘッドホン付き再生専用機として商品化すれば売れるはずだ」。そして、盛田はこう続けたのである。「若者、つまり学生がターゲットである以上、夏休み前の発売で、価格はプレスマンと同じくらい、4万円を切るつもりでいこうじゃないか」
「冷静に検討を重ねると、難しい問題はいくらでも出てくる。だから検討する前に、『えいやっ』と返事をしなくちゃ話は始まらないよ」と大曽根はいつも笑って言う。 技術的な心配がなかった代わりに、「この商品コンセプトが果たして世に受け入れられるか、そのためにはどう売り込んでいったらよいか」ということのほうに、皆の意識が集中した。まず、名前を決めようと、知恵を絞ったのは、宣伝部の若手スタッフたちである。ああでもない、こうでもない、と議論しているうちに出てきたのが「ウォークマン」だ。当時スーパーマンが流行っていたのと、基となった機種がプレスマンだったことから若いスタッフが思い付いたのである。屋外へ持ち出して、歩きながら、動きながら楽しむというコンセプトにも合う。
ところが、こんな変な和製英語はとんでもない、といきまく人も出てきて物議をかもした。しかし、盛田は、考えた人たちの意志を尊重した。「使うのは若い人だ。若い人たちがそれでいいと言うのだからいいじゃないか」。この言葉に勇気づけらた宣伝部の担当者たちは「もう今さら変えられない、英語でなければ、エスペラント語だと思ってください」と言って押し切ってしまった。実は、パッケージもポスターもすべて、「ウォークマン」で準備を進めていたのである。何しろ時間がない。
コンパクトディスク
ミニディスク
CCD
UNIXワークステーション (NEWS)
フロッピーディスク
ディスプレイ
…
「ソフト」という言葉が指す意味が現代からするとズレているように思われる。
「OSで抽象化された世界の上でいかに体験を作るか」みたいなことに一切触れられていない。
唯一のエピソード的にUNIXワークステーションの話があるが、OSより下のレイヤーにしかフォーカスがあたっていない。
「Sony History」は、1945年から1996年までのソニーのあゆみを物語にした、創立50周年記念誌「源流」(1996年8月発行)を要約したものです。
この資料が作られた時代的にパーソナルコンピュータ黎明期ぐらいのものなので仕方ないか。
やっぱりルーツとしてはコンピュータというのが普及する以前から長いこと色んなハードウェアを作ってきた会社で、その歴史と比較すると一人一台スマホをもっている世界観というのは本当にここ最近の5~10年ぐらいのこと。
https://www.youtube.com/watch?v=JcxlFkN-Oy0&t=1s