法律を破るという発想
「米国では法を犯した個人は罰金や懲役刑をくらいますが、企業のコンプライアンスは違います。西洋社会には罰則金がコンプライアンスのための費用より低い場合には、法を破って良いどころか、むしろCEOは法を破るべきフィデューシャリー・デューティーを負うと考える人々がいるんです」(日本語訳は著者)
日本だと「法律を破る→絶対破っちゃダメなぁルール。破ると人間としてアウト」
海外だと「法律を破る→ここから先は国家の庇護が受けられないで、どうなっても知らんけど」
みたいなニュアンスというか、他人のルール違反に対する無関心的自己責任な何かがたまに感じられる
海外の認識わからんsta.icon
ああ、それを「他人のルール違反に無関心」と表現してるのか
日本はそうだと思う
法律はおろか会社や事業部といったレベルでさえもある
まあ同調圧力やろうね
個人個人は別にそこまで絶対視してない
喫煙や飲酒の年齢の絶対性を信じてる人はそんないないでしょたぶん
もっというと文化的に「巻き込まれるから」だろうなぁって気がする
平社員がルール破って怒られたら上司も怒られるとか
巻き込まれるので無関心になれない
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国に限らず法が足かせになっていてぐぬぬが多いので、こういうの参考にしたい
一個人が関わる次元ではないが
それを客観的な道徳規範と誤認する。…… 「つまみ食いすると父ちゃんが怒って殴る」が客観的事実だったのに「つまみ食いは悪である」に変わってしまう。
あるのは「特定のコンテキスト化における便宜を確保したルール」だけであって、それ以上の意味はない
絶対視するなどもってのほか
発想を強化する一ヒントとして使えそうな直感sta.icon