友人との距離感
中国のことわざに「君子の交わりは淡きこと水のごとし」というものがある
良好な交友関係ほどあっさりしている、という意味
これはエピクテトスのページにも書いた
実際のところどうだろうか
サンドウィッチマンのふたりは同じ部屋に住んでいても関係は良好だったようである
これは反例として扱うことが出来るだろうか?
「価値観を共有する人間同士であれば同じ空間にいても喧嘩は生じない」の仮説について
のび太とドラえもんの人間関係は良好のように見える
ドラえもんは「のび太は能力が低い」という前提を持っており、のび太の失敗に対して寛容だから?
「失敗して当然」と考えているため、「勝手に期待して勝手に落胆する」ということが無いとも言える
その点においてドラえもんは悲観主義と言える
他人と空間を共有する場合、ドラえもんの悲観主義は参考になるだろうか
またのび太とジャイアンが喧嘩をすることについて
「価値観の違う人間が同じ空間にいる」ことが喧嘩の原因とも言える
こちらはフーコー的だろうか?といってもフーコーの考え方を理解できている自信がないが
のび太とジャイアンが仲良くする描写も見られる
片方が引っ越すなど、ふたりの物理的接触機会が減少した場合、再開時に喧嘩は発生しないと思われる
それぞれの価値観について
ドラえもん:のび太の失敗を前提としているため、それに関して寛容
のび太:省エネ的というか、幸福量を多くするのではなくストレス量を減らすという考え方
ジャイアン:マキャベリズムというか…
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結論を出すことが難しい
のび太とドラえもんの例は特殊なため、一般的な人間関係を仮定する
お互いが「同じ空間を共有する場合でもプライバシーの棲み分けは心掛ける」とする
「心掛ける」ことが必要である時点で構造に問題があると言える
他人の趣味に水を差したくない、ということはある
例えば私はボーイズラブ趣味は無いが、だからと言ってそれを楽しむ人に水を差すことは無粋である
他人の畑を荒らしたくないということ
喧嘩が発生するメカニズムについて
オキシトシン過剰が原因という意見が少数見つかる
相手を「共同体のメンバー」として認識するため?
私の場合、友人と電話をする時は数か月は間隔を空けるようにしている
毎日のように連絡をしていると仲が悪くなりそう、という理由
「良好な交友関係ほどあっさりしている」の仮説を証明する場合、毎日連絡をして仲が悪くなることを検証する必要がある
その気が起きない
怖いので
そもそも友人関係において「向こうがどう思っているのか」を気にする必要が無い
それを気にしている時点で向こうを信頼していないことになる
それは友人に対して真面目な態度とは言えない
「向こうはこちらを友人とは思っていないかもしれない」ということはそもそも大前提である
不確実なものを受容するからこそ「信頼」なのであり、確認してしまう時点で受容できていないことになる
そういうことなので友人関係を作ることには勇気が必要になる
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「新しく友人関係を築く」という場合について
私は時間をかけて仲良くなることの方が好きである
初対面で気さくに話しかけてくれる人も勿論好きなのだが
初対面でどのような印象だったか、ということについて
同じ空間を共有する場合であれば、どのみち接触時間は増える
そのため交友関係の持続性とは関係ないだろう
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アドラーは「上下関係をつくらない」ことが重要と説いたようである
彼は自著が少ない・残されていない人物なので不明瞭ではあるが
私は『シャーロックホームズ』シリーズを全く読んだことが無いが「ホームズ・ワトソン的関係」は長続きしそうである
こちらもドラえもんと同様、ワトソンがホームズの人間性に関して悲観主義だから?
アドラーの言葉は「叱られない・褒められることが目的になってしまうことを避ける」ということである
ドラえもんもワトソンも、褒められるためにくっついているわけではなさそうである
「自分から見て少し変人」と思えることが重要な要素だろうか
相手の良い所しか知らないと、悪い所を見た時に幻滅しそうである
関連記事
→(敬意の払い方)
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以前見つけた記事の話
仲良くすることが仲間という言葉の定義ではない、という内容
そうなると友人関係を「二人三脚」や「仲良く走る」と比喩することは不適切である
「一緒にゴールしようね」というネットミームが表していることと同様
壁に仕切られたレーンを、お互いに走っている様子を想像しながらひとりで走るというイメージが適切か
友情があれば努力している様子は想像できるはずである
参考
基素基 様
/motoso/孤独な並走
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仲直りをする際の考え方について
例えば私たちが誰かと喧嘩をして、そいつに「嫌な奴」というレッテルを貼ったとする
その嫌な奴がこちらに対して「あんなこと言わなきゃよかった」と思っている可能性は、まあ無くは無いはずである
それを考慮できるなら仲直りしてしまった方が良い
「仲直りしておけばよかった」のストレスを一生抱えるのはキツい
基本的に人間関係のトラブルは自己を特別視した際に発生する
「自分の方が頭が良い」や「自分の方に正当性がある」などの心理が喧嘩の原因であることが多い
また「そいつのためを思ってやったのに期待した反応をされなかった」という原因もある
どんなに親しい友人であっても、その人の心はその人のもののはず
そもそも「期待」に「他人をコントロールできる自分」の前提があり、若干危険
良かれと思って、ということは確かにあるが、そのあたりは気を付けたい
仲直りの難しさは本音より建前が先行することにある
「仲直りしたい」という本音より「あんな奴と友達じゃなくても構わない」という建前が先行する
建前が先行する理由はその方が格好がつくからである、実際は格好良くないのだが
出典を忘れてしまったが、少し前に「迷ったら言わない」という言葉を聞いた
人間関係の文脈だったと記憶している
「言うか言わないかで迷ったら、言わない方が最適解」ということだろうか
人間関係のトラブルで「あんなこと言わなきゃ良かった」と後悔することはしばしば起こる
言うべきか迷うということは、言わないことのメリットも認知しているということである