「想像力とは塚に置かれた花である」
と題された、記事が目に入りました。
富士山を望む展望台に、そこには場違いなほど美しい青色の花が、無造作に置かれていたそうで。
それを見つけた上の記事の著者の記述:
[……]言葉にしない物語への畏敬の念を忘れていたような気がしている。
[……]僕達は誰かを想像する時、言葉が届く範疇でしか表現することができない。それが言語化の限界であり、その限界があるがゆえに言葉を尽くされた表現はその切実さゆえに人の心を打つのだ。ただ、どうしても言葉にならない感情を持つ時が人にはある。
誰かの物語を勝手に想像することは、そこに敬意があればそれほど悪いことではない。[……]
via. 想像力とは塚に置かれた花である - メロンダウト
今年の新語2024の大賞は「言語化」でした。
生成AIは、「言葉」を入力せねば、その道具の有用ささえ引き出せません。
そんな時代に、私たちが顔を合わせてボードゲームを楽しむのは、言外の“想像”が他者に対して働くからなのだと思いました。
「無言の環境」に、極彩色の言葉未満の意味が飛び交う“遊び”が黙談.iconです。
裏を返せば、私たちは他者の想像力を信頼するしかない、それに賭けるしかないとも言えそうです。
via.
語らないことでしか、伝わらないことがある。
語るという行為が、覆い隠してしまうようなこと。
ただ示唆して、その示唆から各々が想像する、そのことを通してしかつかめないようなこと。
経験。
経験はなぜ語ることで覆い隠されてしまうのか。語る時人は主体間の意味のやりとりを前提する。だが経験はそうした図式に収まらない、意味に置き換えられないのである。経験はただ言葉の相貌として示唆することしかできない。言葉の相貌は意味のような輪郭を持たないが、人の体に、魂に直に響く。
何か強く訴えたいメッセージがあるときこそ、語るのではなく、示唆する形を探らなければならない。
言葉を、一義性に縮減するのではなく、むしろ多義性に解放してやらねばならない。
他者の想像力を信頼するしかない、それに賭けるしかないのである。
@freakscafe
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