東京
ノンフィクション「対馬の海に沈む」は、まさに「それ以外」のリアル、である。だから、東京じゃない人が読んだ時、どんな感想を持つか、興味がある。今、いらなくなるのは、東京的ホワイトカラー、だったりする。冨山和彦さんの「ホワイトカラー消滅」を参照するまでもなく。大学の教員も、まあ例外ではない。しかも、いらなくするのは、そんなホワイトカラー空間から生まれた人工知能だったりする。一方、世界の標準は、お金というグローバルスタンダードで売り買いされる。非ホワイトカラー的な「それ以外」の価値をしかし日本の東京的ホワイトカラーは値付けできなかった。東京的ホワイトカラーは、総じてサラリーマンだから、である。サラリーマンに価値などつけられない。自分がサラリーマンだから当事者としてわかる。かくして、日本の「それ以外」の価値は、自然も人も風土もご飯も含めて、日本のものじゃなくなるかもしれない。お金的な意味で。で、インターネットについては、東京の人が、「以外」の人よりはるかにアクセスしている。 理由ははっきりしている。東京には「情報」ばかりがある。その「情報」は、かつてマスメディアを通じてしか接することができなかった。だから「以外の人」はまだ見ぬ東京という情報を求めて東京にやってきた。今や、情報はインターネットでいくらでもアクセスできる。結果、東京という情報に対する渇望感は相対的に減っていった。 東京的都市は、ものすごく狭い。
東京23区と中央線の一部。東京横浜間の私鉄沿線および横浜の中心。このくらいである。人工にして2000万人程度。
日本の15%ポッチである。
まず、東京的都市とは、官公庁、メディア、大企業の本社機能が集約した場所のことである。40年前まで、大阪に本社を置く大企業は少なくなかったが、ほとんど東京に移った。さらに明治維新からこっち、天皇も東京在住で京都ではない。
その意味で、京阪神も名古屋も札幌も福岡も「東京的都市」ではない。・
もう一つの定義は、鉄道だけでどこでも自由に行ける街、ということである。
では、東京でそんな街はどこまでか。
3700万人の雑な東京圏の人口のうち、その定義に合うのは国道16号線より大幅に内側のエリア。鉄道が自在に活用できる街は、東京の上記2000万人エリアと京阪の中心部くらいである。
重要なのは、日々の移動手段、交通手段である。
東京的都市以外では、「大都市」であっても、多くの場合、自動車を併用した生活をしている。 統計データでもはっきり出ている。
東京的都市の2000万人の中でも半分近く、おそらく1000万人近くは、鉄道で都心に通勤しながら、生活や遊びでは自動車を併用しているケースが少なくないはずである。国道16号に接した辺りでは、通勤はともかく、生活や遊びでは自動車の方がメインの交通手段になっている。自治体のデータでもはっきり出ている。
89年まで日本の自家用車保有台数は三千万台を切っていた。それが90年代のたった10年間でなんと2000万台も増え、2000年代には5000万台になり、現在は6000万台を超えている。過去30年間が、一番モータリゼーションが進んだ時代なのだ。 ところが、東京2000万人の中にいると、自分たちが日本のスタンダードであり、中心だと勘違いする。
逆なのだ。東京人はマイノリティーであり、その常識の大半は「それ以外」では、全く使い物にならないのである。
東京的都市の「エリート」は、自分たちが日本について、恐ろしく無知だ、と自覚した方がいい。