メディチ家
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コジモの時代、メディチ銀行はその卓越した経営センスによって先行バンコを次々と追い抜き、トップ・バンコの座につきました。 顧客からみた、メディチ銀行と付き合うメリットのひとつが「ネットワークの広さ」です。メディチ銀行はイタリアだけでなく、ロンドン、ブリュージュ、リヨン、バルセロナ、ジュネーブなどヨーロッパ各地の"要所"に拠点を設けました。商人たちはこの支店ネットワークを活用してキャッシュレス取引を行うことができたわけです。 さて一方、ネットワークを拡大するメディチ銀行側には、支店管理という問題が生じます。
電話やインターネットどころか文書ですら通言するのが難しい環境で、どうやって遠隔地の支店を管理するのか?この管理手法を確立できないとネットワークを拡大することができません。
ここでメディチは、各拠点の管理方法について独創的な手法を考案しました。それは本部に権限を「集中化」するのではなく、できるだけ「分権化」しようという試みです。 銀行の拠点はいまでも「支店」と呼ばれますが、メディチ銀行ではその枠組みには収まらない「独立組織」であり、支店の支配人にはかなりの経営権限が委護されました。フィレンツェ本部は、支店経営や与信管理にはほとんどかかわらず、「支店新設の判断」など大きな問題に専念していたようです。
支店にはフィレンツェのメディチ本部が出資するだけでなく、支配人も出資を行いました。つまり支配人は支店の共同出資者でもあったのです。
ボッティチェッリはもともとメディチ家主宰の「人文主義者サークル」という、今聞くとどことなくヤバい集まりに参加していました。簡単に説明すると「古代ギリシャ・ローマ時代という昔に回帰することで、人の本質に迫ろう」というコミュニティです。 そこで彼は多神教だった「古代ローマ・ギリシャ」と「一神教のキリスト教時代」との融合を絵画で試みるわけです。そしてメディチ家から依頼を受けて「ヴィーナスの誕生」をつくります。誰もが知っているであろう、超有名な作品ですね。ちなみに横300cm、縦170cmとかなりデカいです。 いわば、ルネサンスの文化の担い手たちは、人類の偉業を達成すべく、芸術に打ち込んだともいえるだろう。その活動を支えたのが、メディチ家を始めとした「パトロン」と呼ばれる富豪たちである。メディチ家とは、ルネサンス期に、東方貿易と金融業で台頭したフィレンツェの名家だ。そのなかでも芸術家の支援を積極的に行い、「祖国の父」と呼ばれたのが、コジモ・デ・メディチである。 コジモは31歳のときに父から銀行経営を引き継ぐと、海外進出など巧みに支店を拡大させ、メディチ銀行を大躍進させることに成功。さらに、高級原料や高級衣料など様々な輸出品を手がけて、莫大な利益を手にしている。
それだけではない。コジモはフィレンチェ共和国の政治家として、内政のみならず、外交政策にも関与。メディチ家によるフィレンツェ支配を確立させた。
そんな実業界と政界で存在感を発揮したコジモには、もう一つの顔があった。それは、学問や芸術に多大な支援を行う「学芸パトロン」としてのコジモである。 例えば、建築物だけをみても、コジモはサン・マルコ修道院の再建事業に4万フィリオーノ(約48億円程度)のコストを負担している。また、父の代で資金難から行き詰まっていた、サン・ロレンツォ聖堂の工事を再開。6万フィオリーノ(約72億円程度)を支援した。 そのほか2つの宗教建築をあわせると、コジモは全部で約18万フィリオーノ(約216億円)ほどの費用を負担している。これでも、コジモが行った支援のごく一部だというから、開いた口がふさがらないとはこのことだろう。 200億円の支援よりもスゴかったこと しかし、コジモの芸術への支援活動で注目すべき点は、負担した金額の多さではない。
コジモは、ただ莫大な富をつぎ込むのではなく、「いかに有効に使うか」にいつでも重点を置いていた。 後世への財産とすべく、コジモが押さえていた2つの重要なポイントについて、解説していこう。
ポイント(1) 人材の育成に資金を投じた コジモは芸術や学問に資金援助をしながら、人材育成のためのサポートも積極的に行った。
その代表例が、人文主義者が集まる私的サークル「プラトンアカデミー」である。古代ギリシャで哲学者プラトンによって開設された「アカデメイア」にならって、コジモが構想したものだ。 「プラトンアカデミー」の中心人物として、コジモは侍医の息子だったマルシリオ・フィチーノに着目。フィチーノのために家を市内に用意して、生活費の面倒まで見ている。さらにギリシャ語、ラテン語習得のための環境まで整備したというから、強烈なバックアップである。 そんなサポートの甲斐があって、フィチーノはプラトンの全著作のラテン語訳に着手し、プラトン学者として大成することになる。ほかにも、コジモは芽があると思う学者には、住まいを提供したり、大学で雇い入れたりした。 支援する事業に精通していたまた、コジモはただパトロンとして芸術家たちを支援したわけではなく、その価値を十分に理解したうえで、さまざまなリクエストも行っている。というのも、コジモが学生時代に打ち込んだのは、金融業とは全く関係のない人文学の研究だった。さらに、建築、音楽、彫刻などにも造詣が深く、多方面に精通した知識人としての顔も持っていた。コジモが多額の資金を使い、翻訳者や文献学者など人文学の研究者をサポートしたのは、そんな自身のバックグラウンドがあったからだった。そのため、コジモの場合は、自らの知識によるアドバイスもパトロン活動に含まれていた。