なめらかな社会とその敵
一方で、なめらかな状態は、非対称性を維持しつつも.
内と外を明確に区別することを拒否する。ある状態から別の状態までは連続的につながっており、その間のグレーな状態が広く存在する
サリーとアン課題では、サリとアンが同じ部屋で遊んでいて、サリーがボールをかごの中にいれて部屋の外に出る。サリーがいないうちにアンがポールをかごから出して箱の中にいれる。サリーが部屋に戻って来たときに、被験者に「ポールを探そうとサリーがかごと箱のどちらを先に探すか」を質問する:サリーは、アンがボールをかごから箱に移動したことを知らないので、正解はかごである、だが、この課題をクリアできない幼児は箱と答えてしまう.つまり、「心の理論」をもたない幼児は自分が事実だと知っている内容と、他人がどのような信念をもっているかを区別することができない。 心の理論が重要なのは、「他者が心をもっているかどうか」という哲学的な問いを、「他者が心をもっていると想定し推論する能力を自分がもっているか」という問題に転化させたことにある。他者がたとえ心をもっていなかったとしても、そのように感じ、推論する能力をもっている個体がいるかどうかは科学的に議論できる
ベンジヤミン・リベット (神経科学)やダニエル・ウエグナー(心理学),ヴィラヤヌル・ラマチャンドラン(神経科学)らの研究は、認知心理あるいは神経科学的な実験から、自由意志が幻想にすぎないことを示唆している (Ramachandran and Blakeslee, 1998; Wegner, 2002; Libet,
2004)。ここにおいては、自由意志は行動の原因ではなく、行動を後付け的に合理化し、自らの一貫性を偽装するための仕掛けにすぎない.
リベットの有名な自由意志の実験である。リベットが明らかにしたのは、運動を開始するシグナルとなる準備電位は、その運動をしようとする意志のタイミングよりも300ミリ秒ほど早くはじまるということである。つまり、意志より前に運動がはじまっているということになる、リベットの解釈によれば、意志というのはいわば拒否権である。自由意志というのは、複数の並行して開始される運動プロセスのから、適切でないプロセスを拒否する機能にすぎないという.だから自由意志は、運動の準備電位の前ではなく 300ミリ秒後に起こることになる。
その適切さが「一貫性」を意味するときに、人は運動を後付けで合理化することになる。人間の脳の中には、こうした機能が最初から備わっている。ここ50年ほどで明らかになりつつある神経科学の知見は、「個人」の「主体」概念の同一性を否定しているようにみえる。
そのような人間観、社会観に基づいて、全体主義にも個人主義にも自由主義にも陥らない。新しい思想を切り開こうと思う.
ステップ関数は、シグモイド関数のパラメータ極限のひとつでしかありえない。シグモイド関数をみると、世界は本来なめらかであることに気づかされるのはそのためである.ではなぜ、社会はこれほどまでステップになってしまっているのだろうか。それは、認知システムと社会環境との構造的カップリングに原因がある。認知システムが記号として世界をとらえると、認知の離散化が起きる。認知の離散化とは、ある現象をAか→Aかのどちらかに所属させようという思考である。ひとたび認知が離散化すると、適合する人工物や社会制度が離散化される。それにより。
認知システムのほうの離散化が維持されやすくなる。
たとえば婚姻という概念を考えてみよう。婚姻構念はなめらかな社会関係であってもいいはずであるし。そうした社会も一部に存在する。だが近代の多くの社会では無期限係は離散的である。これは、2人の人間の関係を婚期関係としてみるようになると、夫婦が住みやすいような家(人工物)が設計され、戸籍や税額控除のような社会制度が場えられる、そうすると、さらに姉関係という認知の雑談化に拍車がかかるようになる
だんだんと腰味になっていく。ある人が日本人であると同時にフランス人であったり、ある土地が日本の国土であると同時にロシアの国土であったりする。日本人からなめらかに連続的にフランス人になることもできるし、ロシアからなめらかに日本になることもありうる。そうした状況が、家族、職場、地域、国家などのあらゆる領域で起こっていく、フラットではないので、日本人やフランス人という概念そのものは変質しつつも、完全になくなるわけではない.世界中すべてが完全に同質化するのではなく、価値と文化の多様性は維持される.
近代国家は、土地や国民、法律などのさまざまな境界を、国家のもとに一元化させてきた。なめらかな社会では、それらがばらばらに組み合わさった中間的な状態が許容されるようになる。中間的な状態が豊かに広がる社会では、お互いに完全に一致するアイデンティティを探すことはほぼ不可能で、万人がマイノリティであるような世界をつくりだす。今までの例外状態が例外ではなくなり、フラットやステップのような両極端な状態のほうが例外になる。
会社という存在もまた考え直す必要がある。もし、ひとりの人が同時に2つ以上の職業につくことができれば、それは会社への依存関係をなくし。他の生き方や職業
貨幣の本質は欲望の二重の一致の困難を解決するもの。
民主主義は多義的な概念である。論者によってその定義が異なることも少なくない。しかし、多くの人々が民主主義に対してもっている共通の感覚も存在する。それは、「自分たち自身で自分たちのことは決める」という考え方で、リンカーンの有名な「人民の人民による人民のための政治」という表現に代表される。哲学的には自律性の親念である
第一に、自分たちのことを決めるための意思決定プロセスが警備されなくてはならないということである。具体的.
いるのは、ネットワー
技術を用
には、公正な普通選挙による政治参加の権利の実現があげられる、そこで選ばれた代表者(代議士)によって構成される議会での。公正な議決プロセスの実現もまた重要である.普通選挙と議会の2つの投票民主制をあわせて、二層民主制と呼ぶことにする。二層民主制は、近代の民主主義をプロセス的に担保する最重要なシステムといえよう。
第二に、「自分たち自身で自分たちのことは決める」という概念から、自治、国民主権などの概念が自然に導かれ、”はなくて
それま
、、
国民国家、民族自決,内政不干渉といった概念も同時に生ずることである。すなわち、「自分たち」という厳格なメンバーシップの定義と限定を行い,そこでの自律性を確立するとともに、その外部からの干渉を排除することになる。
この2つの特徴が変わるところに、投票者のメンバーシ破
ップの厳格化が、必然的に要請される。「自分たち(we)」を定義し、投票権はその中だけに、かつその中であればすべての人に与えられる。これを逆転させれば、投票権が与ってき
えられる限界をもって、その政治システムは「自分たち
(we)」を定義していることになる
メディアは、発言者と受信者が1対1のときはパーソナルメディア、発言者に対して受信者が多数になるとマスメディアになる。通メディアにおいて大切な点は、同質のメディアを利用している者同士でしか通備ができず。 同じメディアを受信可能な者同士で【膜】を形成することである、メンバーシップに入るためには同じメディアをもたねばならない。同質なメディアをもつことは、メッセージの内容以上に人間の認知に同質な変化を与える。このことの重要性を鋭く分析したのがマクルーハンである(Me- Luhan, 1962).
マクルーハン的な意味で使われるメディアは、身体的なものである。チェーンがタイヤの延長であるがごとく靴は足の延長であり、レンズがカメラの延長であるがごとく観後は目の延長である、靴や眼鏡のようなメディアが身体と環境の間に媒介することによって、相互の境界を揺るがすことになる。マクルーハンは、この現象を「メディアルをリサージである」というアフオリズムで表現し
労働のゲーム化
「AをBとしてみることができる」という命題は、「AはBである」ことを合意しない。むしろAという現象の複数解釈性をあぶりだしている。世界のあらゆる現象は常に複数の解釈系のあてはめを許容しており、この点において例外は経験上ほとんどない.たとえば、会社で働くという行為は、組織の歯車という解釈系でみることも、自己実現の方法という解釈系でみることもできる。消費を個人の楽しみとして解釈することも、資本主義の欲望機械に駆動されたものとしてみることもできる。
ゲームプレイワーキングがもたらす帰結は、このような「現実」の複数化の加速である。これはゲームの労働化による間接化と、労働のゲーム化による直接化に共通で起こる現象である.
正義の世界では、人々はひとつの共通の現実を生きているという共通設認を強いられる、ゲームの世界ではできは複数のぱらぱらでパラレルな現実を生きることができる、だが、パラレルであっても物理的には相互作用をしているので、物理世界におけるコンフリクトは多発していまうことだろう。
を続けながら、現代における民主主義のフロンティア
3辺境はどこなのか、という問いが何度も頭をよぎった。
道代の民主主義のゆりかごが、イギリスから独立前のアメリカのプリマス植民地だったというのはトクヴィルの「アメリカのデモクラシー」に紹介されているとおりである
(Tocqueville, 1835-1840).
1620年、母国を迫害された巡礼者(ピルグリム)を自称する清教徒の一派が、メイフラワー号でアメリカ大陸を目指す途中,メイフラワー誓約と呼ばれる社会契約を神の名のもとに結び、植民地において完全に対等な関係で新たな政治的な市民団体をつくることを約束した。極めて高い教育を受け、かつ仰心が厚い人々が、ニューイングランドのプリマスに上陸し。そこで民主主義の実験をはじめたのである。プリマス植民地で育まれた統治のもとに、多くの新たな移住者が受け入れられ、ニューイングランド諸邦にその統治が広がっていった.それがいかにしてヨーロッパの統治に比して画期的だったかについてはトクヴィルの詳細な記述に譲るとして、母国のしがらみから自由な植民地というフロンティア=辺境において、近代の民主主義は産声をあげ、育まれたのだ。
主義には必要なのではないだろうか、既存の政治システムを変えようとするのではなく、新たなフロンティアにおいて、既得権のない平等な立場の人々が集まり。新しいアク
ノロジーを用いて実験をするとしたらそれはどこなのだろ
ひとつの候補は、分散型自律組織
(DAO: Decentral-ized Autonomous Organization)やメタバース(Stephen-son, 1992)などの仮想空間である。物理的な制約を共有せずとも、仮想空間の統治において完全に平等な個人が集まり意思決定をしていくということが可能になっている。スマートコントラクトで社会契約を結んだ人々が、新しい立法や行政の仕組みを導入し、劇的な成果を生み出すかもしれない. 第二の候補は、先進国の中の忘れられたエリア、小さな山村といったところがフロンティアになるかもしれない。
リモートワークが可能な時代になったことを利点として、教育を受け理想に燃えた若者が集まり、村作りをはじめたとしたらどうだろう.あるいは、民主主義が根付いていない発展途上国の近代的な政治が機能していないエリアがフロンティアになりうるかもしれない。
第三の候補は、現代における開拓者が目指す宇宙である、宇宙開発企業のSpacexは2029年までに火星に人をるためには、往復で6分から22分もの時間がかかるため。地球とは独立して火星で意思決定を独自に行われるほうがいいという結論に達する可能性がある.地球外への人類の進出がきっかけとなり、宇宙空間で民主主義の実験が行われるようになるかもしれない。