エピステーメー
フーコーの「エピステーメー」は、ある時代の人びとが何を知識とみなし、どんな問いや概念操作が“可能”だと感じるのかを裏側で規定している「知の地層(歴史的ア・プリオリ)」です。彼は『言葉と物』(1966)で、個々の天才や理論の発明史ではなく、学知を支える無意識的な秩序・規則性を発掘する「考古学(archéologie)」という方法でそれを描き出しました。エピステーメーは主観の外にあり、論理や文法を超えて、言説が成立し知識とみなされるための可能性の範囲=“思考の設計図”を与えます。これは「世界観」や「イデオロギー」の総称ではなく、そうした全体化を拒む分析単位として構想されます。 フーコーは西欧近代の長い時間を、少なくとも三つのエピステーメーの断層として読解します。①ルネサンスでは「類似・徴(シミリチュード)」の思考が支配的。②古典主義時代(17–18世紀)には「表象と秩序」が知の形式となり、一般文法・博物学・富の分析が整序される。③19世紀以降の「近代」では“人間”が知の中心=経験的でありながら超越論的でもある二重の存在として現れ、「生(生物学)・労働(経済学)・言語(言語学)」の三領域が組み替えられます。これらの転換は直線的進歩ではなく、断絶=不連続の歴史として捉えられます。 その後、彼は方法を「系譜学(genealogy)」へと拡張し、監獄・医療・セクシュアリティなどの領域で権力=知(power/knowledge)の微細な装置を追跡します。ここでは、転換の“原因”や制度・技術・実践がどう絡み合って現在の合理性を作ったのかが焦点となり、エピステーメー概念は背景へ退くものの、時代的合理性の骨格を示すという意義は保たれます。(スタンフォード哲学百科事典(https://plato.stanford.edu/entries/foucault/ "Michel Foucault (Stanford Encyclopedia of Philosophy)")) 現代的含意として、フーコーは“近代のエピステーメー”の内部矛盾(人間=経験的かつ超越論的という二重性)を指摘し、その「崩壊」の兆しを読むことで「人間中心主義」の終焉後を構想しようとしました。私たちが「当たり前」だとみなすデータ、指標、専門分化、規制や倫理の枠さえも、別様に組み替えうる歴史的条件だ——というラディカルな視角が、この概念の最大の効用です。(スタンフォード哲学百科事典(https://plato.stanford.edu/entries/foucault/ "Michel Foucault (Stanford Encyclopedia of Philosophy)"))